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委員会会議録

委員会補足文書

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令和5年11月子どもの孤立対策特別委員会
一般社団法人ヤングケアラー協会 代表理事 宮崎成悟氏 【 意見陳述 】 発言日: 11/21/2023 会派名:


○宮崎成悟氏
 ヤングケアラー協会の宮崎と申します。
 本日は貴重な機会をいただきましてありがとうございます。
 今から50分程度お話をさせていただきたく思います。
 ヤングケアラー当事者の人生から考える支援の在り方ということで、ヤングケアラーの概要や、私の体験談、そのあたりを踏まえた上での支援の在り方みたいなところをお伝えさせていただきたく思っております。
 本日、大きく6つに分けてお話をさせていただきます。自己紹介させていただいて、ヤングケアラーの概要、もう皆さん御存じだと思うのですが、改めましてさらっとお伝えをさせていただいて、その後、僭越ながら、私の経験についてもお話をさせていただいて、時間があれば、ほかの当事者の事例もお伝えさせていただきたいと思っております。あとは支援の在り方と、最後に、多分これは時間がないと思うのですが、ヤングケアラー協会についても御紹介させていただきたく思っております。
 私が、1989年生まれの今34歳ですけれども、15歳、中学校3年生の頃から難病の母のケアをしてきまして、32歳で母を亡くしましたので、計17年間ぐらい、ヤングケアラー、そして若者ケアラーとして人生を歩んできました。進学を諦めたり、企業に入るのに苦労したり、企業に入ってからも介護離職をするなど、本当にそのケアに振り回されると言いますか、ケアとともに生きてきた経験があります。
 2017年ぐらいに、ヤングケアラーという言葉を知りまして、そこからヤングケアラーをサポートする活動、オンラインコミュニティですとか、就職・転職支援の事業などを始めまして、2021年にヤングケアラー協会を立ち上げております。
 我々は、国や自治体と一緒に仕事をすることが多くて、厚生労働省さんのアドバイザーを以前務めていたり、今年度もこども家庭庁の検討委員会の委員をさせてもらっていたり、東京都の品川区のヤングケアラーコーディネーターとして、現場で活動などもしております。
 後ほど、私の経験について詳しくお話をさせていただきますので、自己紹介はこの辺とさせていただきます。
 ここから、ヤングケアラーの概要です。本当に御存じかと思うのですが、改めまして、日本でまだヤングケアラーの法令上の定義はないと言われております。ただ、イギリスでは、ヤングケアラー支援が進んでおりまして、法令化された定義がございます。ほかの人にケアを提供している、または提供しようとしている18歳未満の者と定義がされているのですが、かなり幅広くヤングケアラーを捉えている印象がありまして、提供しようとしている段階でも、もうヤングケアラーとしてサポートしていきましょうという、その予防的な観点がすごい表れていると思っております。
 イギリスでは、2014年に、子どもと家族に関する法律によって、ヤングケアラーが要支援児童として、位置づけられていますので、自治体がアセスメントを実施するなど、サービスの提供がもう義務づけられているという状況です。18歳以上の若者ケアラーについても、2014年、ケア法によってアセスメント等の実施が義務づけられているので、もう国として一丸となって、ヤングケアラーを支援しているところで、日本よりもさらに進んでいると思っております。
 オーストラリアも定義があり、かなり細かい言葉が入っているのですが、イギリスと比べて、病気や障害、精神疾患などが入っている定義になっておりまして、25歳以下までをヤングケアラーとして支えているところが特徴と思っております。オーストラリアも、法律に基づいた定義がありまして、2010年に制定されたケアラー貢献認識法ですけれども、子供もケアラーとして位置づけられるとともに、ケアを担っていたとしても、ほかの子供と同等の権利が守られることが明記されているので、こちらに基づいた支援をしております。
 イギリスの研究者が、各国でヤングケアラー支援がどれだけ進んでいるかをランキング形式にしたものがあるのですが、イギリスがトップで、オーストラリアやオランダなどが続いてくるのですけれども、日本はまだかなり下のほうで、サウジアラビアやインドなど、福祉がまだ進んでいない国と同水準にあるので、ここから日本はさらに底を上に上げていかなきゃいけないだろうと考えております。
 そんな日本が、今発表している定義がこちらで、御存じだと思うのですが、日本ケアラー連盟さんが発表している定義を、各地方自治体が参考にする形で、こども家庭庁もこちらを参考にしていると思うのですけれども、つくっております。家族のケアを要する人がいる場合に、大人が担うようなケア責任を引き受け、家事や家族の世話、介護、感情面のサポートを行っている18歳未満の子供と言われています。18歳からおおむね30歳代までの若者を、若者ケアラーと表現しているのですが、こども家庭庁の定義を見ていると、18歳でケアが終わるわけではないので、最近こども家庭庁は、この18歳未満というのをもう消してしまいました。大学生なども含め、切れ目がないように支援をしていくという、何か思いが見られる定義になっています。
 この責任の文字を赤字にしているのですが、どれだけその責任を負っているかというところが、ヤングケアラーか、そうではないかのポイントと思っております。
 幾つか事例を挙げさせていただくのですが、例えば、御両親も健康で、御兄弟がいたとして、御兄弟も健康で、御両親が忙しいからたまに留守番をしているのは、それも一部ケアはしていると思うのですが、それはもう日本の中でありふれていると言いますか、大人が担うようなケア責任かというと、そこまでではないと思うんですよね。ただ、2つ事例を挙げさせていただくのですが、この間、ある子ども食堂の担当者の方から聞いたお話ですけれども、中学生の子が、毎回開催されるたびに、兄弟2、3人を引き連れて来ていますと。家庭の状況を探ったところ、お母さんが独り親で働かなきゃいけなくて、かつ持病をお持ちで無理できない状況で、その中学生の子が、兄弟のお世話だったり、家事全般を担っているみたいな話を聞いたのですが、それはもう、子供が担う範疇を明らかに超えた、大人が担うようなケアをしているので、ヤングケアラーとしてサポートしなければいけないと思っています。今のは非常に分かりやすい事例だと思うんですね。その子はもう外に出てケアをしていますし、地域の人だったり、学校でも気づくことができると思うんですよね。
 ただ、もう1つ、あえて分かりづらい事例をお話しさせていただきますと、これは私の知り合いの話ですが、その子は当時高校生でした。兄弟がいまして、兄弟が重い障害をお持ちなんですね。御両親は健康ですが、健康とは言っても、お母さんが結構もうケアで疲れてしまっていたりして、体調を崩すとその子が代わりにケアをしたり、そのお母さんがその子に対してすごい愚痴を吐き続けていたり、お父さんお母さんがその兄弟のことでけんかをしたら、その子が仲裁に入るなど、その子はもう学校に行っても家にいても、ずっと家庭のことを気にしている。中学生の頃には1回不登校になってしまったりしているのですが、高校生になっても悩んでいて、ヤングケアラーのピアサポートの場に参加して、何とか前向きになってきた子ですけれども、その子は普通に学校も行けているのです。普通に友達とも遊べているのですが、家の中で、もう家族の中の大黒柱みたいな存在になっている。それも本当に心の中に重い責任を負っていると思うのです。大阪のヤングケアラーの研究をしている先生が、ケアの余波と呼ばれるようなものがあると言っていまして、自分がメインのケアラーでなくても、そこから、その家庭にいることだけでもう余波を受けて、本当に心に重荷を抱いてしまう。そういうのも責任として、子供が担う範疇を超えていると思いますので、サポートを入れていかなければいけないと思っております。
 ですから、目に見えやすい責任と、なかなか気づきづらい責任がございます。
 ヤングケアラーの日常と諦めてしまってることを、こちらに書かせてもらっているのですが、文字が小さくて恐縮ですけれども、左側のイラストで、身体的なケア――看病、見守り、トイレの介助などをしている、精神的なケア――話し相手になる、愚痴を聞くなどをしている、に加えて、家計を支えるために労働をして助けていたり、幼い兄弟のお世話をしている、買物、料理、洗濯などの家事をしている、あとは通訳をしているような子たちがたくさんいます。ただ、ケアをしていること自体は全然悪いことではないのですよね。その子も家族のためを思ってやっていますし、家族もそれによって助かっている部分が大いにあると思うのです。ただ、それがあまりに過度になってしまって、いろいろなことを諦めてしまうようになると、問題かなと思っています。勉強や受験、進学に支障を来してしまったり、部活などの課外授業に参加できない、自分だけの時間が持てない、友達と放課後に遊ぶことができない、子供らしく自由に夢を描くことができなくなってしまう、理解されること、気軽に相談することすら諦めてしまうとなってしまうと、学校生活に影響を及ぼすのみならず、その後の長期的な人生にも影響を与えてしまって、幼い頃にこういう経験が続いていくと、本当に自己肯定感が下がってしまって、後々就職でつまずくとか、人とのコミュニケーションが苦手になってしまうとか、そういう子がたくさんいますので、早めにサポートを入れることが大事だと思っております。
 これまでいろいろなヤングケアラーに会ってきたのですが、本当にいろいろな家庭があって、いろいろなケアをしている子たちがいます。この辺りはもう御存じいただいていると思うので、割愛させていただきます。
 ヤングケアラーの人数です。こちらも、もう御存じだと思いますが、もともと平成29年度の就業構造基本調査で、最初にヤングケアラーの数がある程度把握されたと記憶しております。計54万人ぐらいです。ヤングケアラーがいると言われていたのですが、15歳未満がこの調査だと把握できないのと、質問項目が高齢者の身体介護に寄っているので、確からしい人数が把握しづらいということで、厚労省が数年前に調査を始めた結果、皆さん御存じのとおり、クラスに1人か2人がヤングケアラーだということが分かってきたのです。一般的に、メディアなどでこういうニュースが報じられますと、本当にクラスに1人か2人が、学校にも来れないとか、本当に重い負担を負っているヤングケアラーと捉えられてしまうのですが、この中には本当にケアが始まったばかりですとか、まだそこまで負担が重くないというケアラーも含まれて、クラスに1人か2人と言われております。
 我々は、結構全国で学校訪問事業や、ヤングケアラーコーディネーターの活動の中で、学校ともいろいろ意見交換をさせてもらっているのですが、肌感として、大体これくらいの人数がいるだろうと感じております。
 ここら辺も御存じだと思うんですけれども、ヤングケアラー問題の背景です。当時は、昭和の時代は、3世代同居などが多くて、このサザエさんの家庭だったら、仮にサザエさんが病気になって介護状態になっても、フネさん、ナミヘイさん、マスオさんで支えられると思うんですよね。地域に三河屋さんなどもいたりして、この状態でタラちゃんがサザエさんの介護をするとは、なかなかなかったと思うんです。もちろん、数としてはあったと思うのですが。ただ、今どうなっているかというと、この3人で暮らしている家庭が多くて、この状態でサザエさんが交通事故に遭ってしまって、車椅子生活になったとしたら、マスオさんが急に仕事を辞めるわけにはいかないですし、タラちゃんが介護をするのかという状態になってしまうのですが、もちろん社会的なサポートは入りますが、1日中ヘルパーさんや看護師さんもいられるわけではないですし、夜中にサザエさんがつらいって言って泣いていたら、もしかしたらタラちゃんは頑張って、夜中起きて、サザエさんを支えるかもしれないですよね。なので、よりヤングケアラーに対して、サポートを厚くしていかなければいけないと思っております。
 この辺りも御存じかと思うのですが、具体的な数字で表すと、1世帯当たりの人数が1950年代に比べて半数程度になっています。共働き数もかなりの数が増えております。独り親家庭も80年代後半に比べると、かなりの数が増えております。家の中の人の数、大人の数が減っていることが表れていると思います。
 一方で、高齢者の数は言うまでもなく増えておりまして、精神疾患を持つ人の数も99年に比べて2014年には倍近くになっていると言われております。家の中の人の数、大人の数は減っている一方、ケアを要する可能性の高い人の数はとても増えているので、じゃあそれを誰が担うのかとなったときに、子供、若者が担わざるを得ない状況になっております。
 逆に言えば、大人だけでケアを担うことが限界になってきているとも言えると思います。家族の力の弱体化と言われたりもしている。にもかかわらず、日本の社会はまだまだ家族の助け合いに頼る風潮が強いと思うんです。そうなると、子供や若者にしわ寄せがいってしまう、結果、子供の権利が守られなくなるということが起こってきていると思います。ケアが必要な家族、例えば要介護者とか障害者の幸せはもちろん考えるのですが、それだけではなくて、ケアをする子供たち、その周りにいる子供、若者の幸せ、大人もそうですけれども、ウェルビーイングをしっかりと考えて支えられる社会の仕組みが求められています。
 フランスでソーシャルワーカーをしている方の本を、この間、読んだのですが、日本は、リスクがなければ家族任せという風潮が強いんですよね。ただ、フランスでは全然違いまして、その子が幸せかどうかで判断するんです。もう見る基準がしんどさと幸せで、全然真逆の見方をしていて、日本だったら、しんどくなければサポートしない。フランスだったら幸せでなければサポートするという、もう全く違う目線で見ているので、フランスではあまりヤングケアラーという言葉が表に出てこないぐらい、もう当たり前に支えるものとして認識されていると聞いているので、日本もそっちにかじを切っていかなければいけないんだろうと考えております。ここは現場に出ていて、結構大きな違いと言いますか、課題になっている部分だと思っています。
 ヤングケアラーの支援は誰がするのかと言いますと、ケアを必要とする人を中心につくられている日本の制度がある中で、同居する子供、若者は専門職からインフォーマルな社会資源であったり、介護力とみなされてしまいます。僕もそうでした。もちろん家族に余裕はありません。学校の先生は家庭の状況まで、家庭のケアの状況までなかなか把握しにくいという状況があります。制度の狭間で支援されないヤングケアラーがたくさんいて、家族の状況を把握して、ヤングケアラーの立場に立って、相談により支援ができる専門職は誰だろうということで、ヤングケアラーコーディネーターが続々と、東京都内では半分ぐらいの自治体で配置がされています。というぐらい続々と配置されていて、静岡県の県のヤングケアラーコーディネーターがいると思うのですが、現場にも担当者がいて、しっかりと連携しながら、支えていかないといけないだろうと考えております。
 ここから私の経験について、お話しさせていただくのですが、こちらの写真で、左の真ん中にいる緑の服を着ているのが私です。その手前が母で、一番奥が父親で、右側が姉で一番手前が弟ですけれども、私の家庭は父と母と、2歳上の姉と4歳下の弟の5人家族でした。母はもともとすごく健康だったのですが、病に侵されてしまいまして、それが多系統萎縮症という希少疾患で、母の場合は目まいの症状から始まって、日に日に体が動かなくなっていくみたいな形でした。亡くなる手前はほぼ植物状態みたいな感じでした。よく周りから、父親は何をしていたんだと言われることもあるのですが、定年退職するまではなかなか仕事で忙しくて、ケアに参加できなくて、ただ父親が仕事を辞めてしまったら、それこそもう介護どころではなくなってしまいますので、子供3人は何となくそのあたりを理解しながら、じゃあ兄弟でどうやって分担してケアしていこうかみたいな感じで生活をしてきました。
 ここから時系列に沿って、私のケアの経験を僭越ながらお話しさせていただくのですが、皆様には、どのタイミングで支援があればよかったか、どんなサポートがあればよかったか、どんな仕組みがあれば、こういう子を支えられたのかみたいなところを、考えていただきながら聞いていただけますと幸いです。
 中学生の頃に、最初にケアが始まったと言いますか、僕の中では家族に異変が起こった感じだったのですが、母が目まいがひどすぎて運転ができなくなってしまったのです。家から近くのスーパーまで徒歩15分ぐらいありまして、母が1人で行けなくなってしまったので、それを子供たちが担っていたり、この頃、まだ母の病気に診断がついていなくて、専門の先生に会うために、本当に1時間とか1時間半かけて病院に行っていたのですけれども、バスに乗って、電車に乗って病院に行くことが難しかったので、子供たちが付き添って行っていたのを覚えています。母も診断を受けるたびに、泣いていて、それを支えていた記憶もあります。
 そこから僕は高校生になりまして、母の家事がもう徐々にできなくなっていったんです。食器洗いや洗濯物など、自分のことは自分でやる必要が出てきました。ただそれも、しんどいという思いはなくて、母が困っているからという思いでやっていました。
 そこから高校2年生になりまして、母が階段の上り下りとかも自力でできなくなってしまいまして、実家が2階建てですが、実家の階段すら登れなくなってしまいまして、なので2階のベランダに洗濯物を干しに行くなど、そういうことができなくなったので、兄弟の誰かが洗濯物を干しに行くとか、もちろん家事も本当に、その前の年に比べてできなくなってきているので、御飯を作ったり、そういうこともやらなければいけなくなってきました。この頃、母の病気に多系統萎縮症という診断がつきまして、もう日本の医療では治らない、不治の病で、死に向かっていくだけですけれども、母は当然落ち込んでしまいまして、僕が高校から家に帰ると、もう部屋の中は真っ暗で、母がもうソファで呆然としているみたいな毎日が続いたので、杖を買って帰ってあげたり、お菓子を買って帰ったり、何か常にもう学校にいても家にいても、母を心配しているような状況でした。
 部活もやっていたので、朝練もあって、夜も遅くて、家事もして、母の精神的なサポートもしてという状況で、母方の祖父母が家に来たときに、本当に泣きながら感謝されたのですが、何でそんなに感謝されるんだろうぐらいな感覚でいました。それくらい当たり前のことと思ってやっていました。
 この頃もつらいという思いはなかったのですが、ほかの家庭と少し違うというのは感じてきまして、休みの日、夏休みなども旅行に行けないとか、部活の試合に誰も見に来ない、嵐の日も台風の日も誰も迎えに来てくれない、誰もお弁当を作ってくれないなど、何かそういうときに寂しさみたいなものは感じましたけれども、それが何かつらい、誰か助けてみたいな感じにはなってなかったです。
 そこから高校3年生になりまして、母が夜中に、自力でトイレに行けなくなってしまったのです。もう一度布団に寝ると、起き上がれない状況になってしまったので、僕が起こしてあげて、そこからトイレに行くことが多かったのですが、症状も悪化してくると、もうそれも難しくなってしまって、おぶってトイレに連れて行くこともあって、トイレに座らせるまでサポートしなければいけないこともあったのですが、さすがにそれはつらくて、体力的につらいというよりは、つらい母を見てるのがつらいとか、さすがにトイレに座らせるまでサポートするのが恥ずかしいとか、どうやったら母がよくなるのだろうとか、そういうことを本当に考え込んで、つらくなっていました。
 夜中に、母のために起きているので、寝不足で学校で結構寝てしまっていたのですが、もともと結構寝ているタイプだったので、先生もなかなか気づけなかったと思うんです。ただ部活はずっと頑張ってやっていたのですが、その部活も休むことが出てきて、そのとき先生に、母の体調が悪くて休みますと話をしたんですけれども、おお、そうかそうか、休めと言われて、休んだんですが、当時はヤングケアラーという言葉もなかったので、そこでコミュニケーションは終了して、ただ担任の先生にも伝わったみたいで、担任の先生から、後からお母さん体調悪いんだってと聞かれたんですが、まあ、はいみたいな感じで、一言二言で終わってしまいました。
 ただ、その当時の担任の先生と、この間、話すことがあったのですが、本当にあの頃の宮崎はつらかったよ、つらそうだったなと言われまして、そんな先生も、ヤングケアラーという言葉がなかったし、サポートの仕方が分からなかったんでしょうね。もうそれだけで終わってしまいました。
 そこから僕は何とか部活も引退して、大学受験を志していたので、勉強して大学に合格したのですが、合格発表の後、もう母が意識不明になってしまいまして、大学に受かっていたんですけれども、大学進学を諦めることにしました。理由は幾つかありまして、もともと僕が結構寄り添ってきたので、それを急にやめられないと思ったことと、父親や姉や、周りの家族を見たときに、自分が一番融通が利くだろうと思ったことと、1年ぐらい介護しながら勉強して、もう少しいい大学を目指せばいいという思いもあったのですが、それで大学に行くのをやめまして、そこから、高校を卒業した後に、もう食事、投薬、喀痰吸引、体勢変更、メンタルケアとか、排せつ以外の介護はほぼ全てやらなければいけなくなりました。今とは違って、ヘルパーさんが痰の吸引とかができないという制度上の問題もあったんですけれども、かなり重い負担を負うようになってきました。
 母に、ナースコールを持たせて、在宅で1階に母がいて、2階に僕の部屋があって、それを押すともう家中に音が鳴り響いて、その度に駆けつけていくのです。痰の吸引をしたり、体勢変更をしたりして、また部屋に戻って勉強していると、またすぐにそれが鳴って、今度は死にたいとか、痛いとか、何言ってるか分からないとか、もうそんなことばかりが続きまして、それが本当につらくて、もうどうしたらいいのか分からなくなってしまって、なのでもう、僕は呼ばなくていいという方向にかじを切って、母の横でずっと本を読んでいる、もう勉強もやめて、友達と連絡を取るのも一切やめて、ずっと母の横に、もういればいいんでしょって思って、僕はずっと横にいて、読書をしていました。本当にもう引きこもっていたので、外に出るだけでちょっと気持ち悪いとか、電車に乗れないとか、それぐらいまで精神的な支障が出てしまった1年でした。
 そこから、毎日料理をしていたので、調理師を目指そうとしたんです。そのことを親戚に、相談というか、報告をしたんですが、本当にそれでいいの、大学に進学したかったんじゃないのって言われて、いや、でももう無理だからと話をしたら、親戚が家に来てくれて、父と姉と話合いの場をつくってくれて、父としては予備校に行くお金を出すからと言ってくれて、姉はもう少し家にいるねと言ってくれて、僕は姉が帰ってきたらバトンタッチで予備校に行くみたいな感じで、勉強する時間が確保できました。
 この頃、母は要介護5だったので、家には本当にあらゆる福祉の人たちが来るんです。ヘルパーさんや看護師さん、訪問リハビリ、マッサージ、入浴など、ただ、みんな僕の目の前を通り過ぎていくのですね。僕は成悟と言うのですが、成悟君、こんにちはって言って入ってきて、みんな母のもとに行って、母のケアをするのですね。それはそういうお仕事なので、全然いいのですが、往診の先生だけが違う関わり方をしてくれたのです。往診の先生は僕の目の前を通り過ぎないんですよ。家に入ってくると僕の目の前で立ち止まって、僕のことを心配してくれるのですね。何か不安なことはないとか、勉強ははかどってるとか、ある時、電話番号を渡してくれて、何かあったらここに電話してと言ってくれて、それがすごくうれしくて、本当にささいなことに思えるんですけれども、当時の僕にとってそれは、いまだにそのときの光景を鮮明に覚えているぐらいうれしいことで、この人だったら本当に何かあったら相談しようと思っていました。
 あとは、ヘルパーさんが僕の分の洗濯物をしてくれたり、御飯を作ってくれたりしたのが、すごく助かったという気持ちがありまして、僕は本当にいろいろな人に支えてもらいながら暮らしてきたので、何とかこうやって前向きに生活できていったんです。
 そこから、大学に入ったのですが、ここから若者ケアラーの話ですけれども、大学に入ったからといって、介護が終わるわけでもなく、母の体調がよくなるわけでもなく、むしろ悪くなっていく一方で、全く大学に通えなくなってしまいました。友達からは、何で来ないのとか、ふだん何してるのと聞かれるのですが、介護をしていると言ってしまったら、その場の雰囲気が暗くなりますし、気を遣われてしまいますし、せっかく飲みに行こうとか、サークルに行こうとか言われても、介護が理由で断ってしまったらもう誘われなくなるのではないかという怖さもあったりして、ずっとうそをつき続けて、バイトで忙しいと言って断っていました。
 そこから、うそにもう疲れてしまって、大学2年生のときは友達を避けて通学するようになったのですけれども、母に睡眠薬を飲ませて、夜の10時ぐらいに寝かせるのですが、その後は僕の自由な時間があったので、そのときに夜中に一緒にいてくれる地元の友達がいて、何とか前を向いていくことができたのです。そこから僕が23歳、大学3年生になって、今度は弟が介護に参加してくれて、弟が、負担の重いヤングケアラーになったのですが、その分、僕は大学に通うことができて、そこから就職活動が始まるのです。ただ、介護しかしていない大学生活で、もうアルバイトもろくにできないですし、サークルや部活もできないですし、留学やボランティアなんてもってのほかですし、就職のときに言えることは、介護を頑張っていましたと言っても、人事の人からすれば、もう何を言っているんだこの子はみたいな感じの目線で、何であなたがとか、お父さんは何しているのとか、何で施設に入れないのとか、そういうことばかりを言われて、今だったら答えられますが、当時は言葉に詰まってしまって、本当に就職も決まらず、大学のキャリアセンターに相談しても、大学からしてみれば、僕はさぼっているようにしか見えず、あなたがさぼっていただけでしょって、この言葉をそのまま言われたのですが、本当に誰も分かってくれないんだなと思っていました。
 何とか駆けずり回って、内定を1社だけもらいまして、家族と話し合ってそこに行くねと話をして、全国転勤のある会社ですが、もう選択肢がないのでそこに入ったら、案の定、東京から京都に配属されまして、家族に全部を任せることの罪悪感は感じていつつも、今思えば、このとき無理やりにでも家を出たのが、いい選択だったんだろうと思います。
 そこから2、3年たちまして、母の体調がさらに悪化してしまって、もうこのまま離れていたら、も二度と会えなくなると思ったので、異動の希望を出したのですがそれも通らず、じゃあもう辞めますって言って仕事を辞めて、東京に戻ってきて、そこで偶然、難病支援のボランティアに参加したのです。そのときに自己紹介をしていたら、宮崎さんはヤングケアラーだったんだねと言われまして、初めてその言葉を知りました。当時、ネットで調べてもほとんど記事が出てこなくて、1つか2つ出てきたんですが、日本にはヤングケアラーが、当時は17万人ぐらいいると言われていまして、結構びっくりしたのです。ずっと何で自分だけ勉強する時間もなければ、遊ぶ時間もないんだと思ってきたんですが、そんなに同じような人たちがたくさんいるんだって思って、僕はまず安心したんです。自分だけじゃないっていう安心感があったと同時に、その記事の中に、イギリスの研究結果によると、ヤングケアラーとして育ってきた子たちは、ネガティブな側面だけではなくて、高い生活能力だったり、責任感だったり、内面的な成熟をしているなど、そういうポジティブな面も培っている傾向があるみたいな記事がありまして、それを読んだときに、すごくうれしくて、本当に介護しかしていない生活も、自分が何もしてないことに対するコンプレックスがありましたけれども、そこから培ったものもあったんだということに、すごいうれしくて、そこから吹っ切れて、ヤングケアラーを支える活動を、この頃から始めていきました。自分と同じような境遇の子たちに、何かできたらと思って活動を始めたんです。
 体験は以上ですが、ヤングケアラーはいつまでなんでしょうという論点があると思います。18歳を超えた瞬間にケアが終わるのかというと、多くの場合はそうではないと思いますし、悩みがいきなりすぱっと消えるのかというと、そんなことはないと思います。なので、何歳までサポートしていくか。イギリスでは18歳未満ですが、若者ケアラーまでしっかりとサポートしている。オーストラリアは25歳未満、神戸市さんは25歳までで、子供・若者ケアラーとしてサポートしています。品川区では40歳未満までをサポートしていたり、例えば、山梨県さんとかは18歳未満までですけれども、僕は本当に、若者世代まで切れ目なくサポートしていかないといけないと思っています。やはり今、ヤングケアラーコーディネーターとして現場に出ているのですが、17歳で、もうすぐ18歳になる子などは、本当に子供の部署が支えるのか、それとも高齢の部署が支えるのか、障害の部署が支えるのかといって、いまだにその自治体の中でたらい回しになるような状況もあるので、そこをいかにスムーズに連携していくかが大事だと思います。品川区では、そういった場合は、ヤングケアラーコーディネーターに引き継いでもらって、そこからコーディネートに入っていく。誰もいなければ、ヤングケアラーコーディネーターがそのまま支援をしていくみたいな感じでやっております。
 ヤングケアラーは誰の問題でしょうというところですけれども、本当に誰のせいでもなければ、誰も悪くないと思うのです。ヤングケアラーのいる家庭は、シンプルに本来その家庭に必要なケアが欠如している状態というだけで、そこをヤングケアラーが補っているだけだと思うんですよね。なので、よくヤングケアラーをなくしましょうとか、解決しましょうみたいなことが言われているのですが、僕はそうではないと思っていまして、ヤングケアラーだったとしても、健やかに、その家族のケアができる環境があれば、その家族が幸せに暮らしていけると思うので、それを社会としてどう、その家族の中に足りない部分を補っていくかという視点が大事なんだろうと思っております。
 ほかの当事者の事例を一旦割愛しまして、ここから、我々の考える、ふだん実践している支援の在り方についてお伝えさせていただきます。
 こちらは、ヤングケアラーの状況を図式化しております。横軸がヤングケアラーの置かれた自由度です。精神的な自由や、時間的自由や、あるいは金銭的自由かもしれないですが、縦軸が年齢です。下がヤングケアラー、上が若者ケアラーで、左に行けば行くほど、支援の緊急度が高い方々です。つまり、生活の自由度が低いのですが、一番左下の子は、通学が困難、できないとか、医療福祉に接触が必要なのにできていないみたいな子たちがいます。結構ネグレクトとか、虐待も入り混じったような御家庭で、要保護児童対策地域協議会の支援対象になるような子たちです。こういう子たちが、メディアに取り上げられて、報じられて、世の中、すごいつらい、負担のめちゃくちゃ重い子がヤングケアラーであるという印象が、もうついてしまっているんですが、もちろんそれもそうなんです。本当に支援の緊急度が高いですけれども、ヤングケアラーの概念って、もっと幅広いと思うんですね。この支援の緊急度が、中の子もいまして、孤立している、何となくつらい、モヤモヤしている、周囲と何でこんなに違うんだろうなどという子たちもたくさんいます。もう少し右に行くと、家族の手伝いの延長線上であったり、悩みが潜在的な子たちもいます。
 僕自身は、最初、中学生のときは一番右にいたのが、だんだんこの左に寄っていって、高校生の中頃にはこの真ん中にきて、高校生の最後に、この中から高にいってしまったのです。ですから、ヤングケアラー支援をしていく上で、よく早期発見という言葉が言われるのですが、早期発見すべきは、この支援の緊急度が高の子たち。それをやりつつ、この中と低の子たちといかにつながっておくかということが大事だと思うのです。高になるのを未然に防いでいくという、予防的な視点がないと、いきなり高になって、本当にリスクが高いから介入しようとなっても、なかなか今度は親が拒否をしているとか、急いでケース会議をして、急いで介入していくと、今度はまた、家庭との合わない部分が出てきたりするので、早めにつながっておいて、早めにサポートできる体制、相談できる体制だったり、家庭に介入するために地域で連携するなどということができると思うので、そういうことが大事だと思っています。
 我々は、全国の自治体さんと結構関わっていますが、この支援の緊急度が、高しかやっていないところはすごく多いのです。要保護児童対策地域協議会で把握している子だけがヤングケアラーと捉えているのですが、それは全然違うと思います。我々は品川区でヤングケアラーコーディネーターをさせてもらっているのですが、例えば子供家庭支援センターや、子供の部署がもうサポートして終結した子も、まだやはり家庭のことがつらいと思うのです。なので、ヤングケアラーコーディネーターに引き継いで、サポートしていくとか、あるいは18歳を超えて、もう子供家庭支援センターがサポートできないとなったら、ヤングケアラーコーディネーターが引き継ぐとか、あるいは学校や医療機関、介護福祉の事業所などにも、ヤングケアラーと思われる子がいたら、連携してくださいと言って、ヤングケアラーコーディネーターにつないでもらって、そこからサポートしていくなどすると、この中と低の段階からつながれるので、それはすごく必要なことだと思っています。
 例えば、1つ事例がありまして、品川区で、本当にほぼ全ての学校を回ったり、医療機関で研修をしたり、介護事業所でも集まってもらって、ヤングケアラーがいたら連絡してくださいと話をしていたら、ある介護事業所のケアマネさんから連絡が来まして、この子がヤングケアラーかどうか分からないんですが、心配なので連絡しましたと連絡がありまして、状況を聞いていると、確かにまだ全然大丈夫なんです。その子の家庭は、あまり詳しくは言えないのですが、お母さんとおばあちゃんと暮らしていまして、お母さんもおばあちゃんも両方病気なんです。その子は学校に行けているし、御飯も普通に食べさせてもらっているんですが、その子がちょっと発狂するというか、急に泣き出すとか、そういうことが増えてきていて心配なんですみたいな状況だったんですね。長期的に考えると、その子のお母さんとおばあちゃんが、もしかしたらもっと体調が悪くなるかもしれない。そうなったらその子は学校に行けなくなってしまうかもしれない。より精神的に支障を来してしまったら、もう後戻りできなくなるかもしれないって考えると、今から対策しましょうと言って、そのケアマネさんと訪問看護師さんや、ヤングケアラーコーディネーターなどがケース会議を早めに開いて、どうやってそのお母さんとの関係性をつくって、家庭に介入していきましょうかとか、そういう話を事前にしていると、本当に負担が重くなって学校を辞めたり、学校に行かなくなったりする前に、介入できるかもしれないので、何かそういうことが大事なんだろうと思います。
 医療機関でこの間研修させてもらったときも、看護師さんはヤングケアラーに結構気づいていたんです。本当にそういう子っていますよねと言ってくれて、ただ、医療機関として、家族が退院してしまうので、変に関わってしまうと責任を持てないので、そこまで深く関わらないようにしているんですと言っていたのです。でもそれだと、やはりそこで支援がストップして、そこから先、その子は大人との関わりがなくなってしまうので、そこからもやはり連携が必要だと思うのです。学校への連携なのか、ヤングケアラーコーディネーターなのか、子供家庭支援センターなのか分からないのですが、そこで連携をしておけば、そこから先も孤立に陥らずに済んでいくと思うので、個人情報の壁はあるのですが、そこをどうにかしていかないといけないと考えております。
 我々が考えていることを幾つか述べさせていただくのですが、今お話ししたとおり、点ではなく線で見ることが大事だと思っています。全てのヤングケアラーに一律に有効な支援の方法はないと思っていまして、ヤングケアラーの置かれた状況の多様さを理解して、ライフステージの変化に応じて対応していかなければいけないと思っております。
 この間、神奈川のある中学校で授業をさせてもらいまして、アンケートの結果、中学校2年生の子から回答をもらったのですが、その子は、私はヤングケアラーじゃありませんという回答だったんです。ただ続きがありまして、兄弟が難病で入院しています。でも、電話できるだけでうれしいし、会えるともっとうれしいし、つらくないのでヤングケアラーじゃありませんと書いてあったんですね。時点で見ると、その子は確かに今は心配ないかもしれないのですが、先のことを考えると、兄弟の病状が悪化するかもしれない。そうしたらお父さんお母さんの関係が変わったり、家庭の仕事をもしかしたら休んだり、家庭の状況が変わるかもしれない。その子は中学校2年生ですが、中学校3年生になったときに、悪化した兄弟が在宅でケアするようになったら、その子もケアに携わることになって、勉強と両立しなきゃいけないというふうになったとすると、結構負担が重いと思うので、やはり長期的な目線で見て、そういう状況であれば、様子をしっかりと見ていくことをしなければいけないと思います。それが例えば、学校の中で情報が終結して、そこから連携されずに今度高校に行ったら、またゼロからになってしまうので、やはりそこも連携が大事だろうと思います。多分、虐待や、ネグレクトの状況だったら、そこからスムーズに連携ができると思うのですが、もっと幅広く連携をしていかないと、やはり先ほどの図での、中から高にいってしまうんだろうと思っています。
 また、定常的な接点を持つことが大事だと思っていまして、こういうお話をさせていただくと、よく民生委員さんなどから、ヤングケアラーに会ったらどう声をかければいいんですかって聞かれるのですが、声かけの内容は、正直、ポイントはあると思いますけれども、あまり大事ではなくて、信頼関係を築くことが大事だと思うのですが、やはり信頼関係を築くというと抽象的で、なかなか難しいので、ただ、定常的な接点を持つということは、どうにか考えられると思うのです。なぜそう思ったかと言いますと、僕が往診の先生に相談しようと思ったのは、その先生が最初から好きだったからでも何でもなくて、本当に月に1回、必ず来てくれて、必ず声をかけてくれる。なので、1年ぐらいたって、この人だったら、自分のことを話してもいいかもと思えたのです。なので、そういう場をつくっていくことが大事だろうと思っています。
 我々は、本当にいろいろな県や市町村で、LINE相談窓口を受託して運営していますけれども、やはりここを大事にしていまして、LINEも1回相談してもらって、そこから連絡を取らなければ、接点がなくなってしまうのですよね。こちらからメッセージを定期的に送っていれば、LINEのリストからたまに上に出てきて、たまたまその子がもしつらい状況になったら相談してくれるかもしれない。なので、その接点を切らさないようにしていくことが大事だと思うので、やはりそこも連携なども必要になってくると思います。
 もう1つ、ここからはヤングケアラーと関わる上でですが、ヤングケアラーの家族を大切にするという視点を持つことが大事だと思います。意外とここが、なかなかない方も多いんですけれども、家族を責めてはいけないと思うのです。例えば僕で言うと、父親は何しているんだとか、言われてしまったら、当時傷ついていたと思いますし、極端な話ですが、SNSなどでは、何か障害者が子供を産むなとか言われたりしていますけれども、僕らはやはりその家族も、その子の味方であるということをやはり伝えていく必要があるだろうと、現場にいて思います。その子の発言を否定しないこと、大人の言い分を押しつけないことが大事だと思っていまして、やはりその子が望んでいることと、大人が提供できるものが食い違うことがあると思うのです、往々にして。そのときに、それを結構押しつけてしまう支援者の方なども結構多くて、子供の声を聞くことを第一優先にしないと、また支援者と合わずに離れていって、孤立してしまうと思うので、そういう支援者側の意識みたいなところも大事だと思っております。
 それから、これもよくあるのですが、解決方法を決めつけないと書かせてもらっているんですけれども、ヤングケアラーにとっての解決は何だろうということを、しっかりと一人一人が考えなければいけないと思っています。解決なんて、多分ないかもしれないのです。なぜこう思ったかといいますと、僕は大学進学を一旦諦めたのですが、そのときの教科書でいう解決方法は、母は要介護5で、家には金銭的な余裕もまあまああって、施設に入れるという選択肢もあったと思うんです。ただそれを、例えば当時、支援者から僕に提案されたとしたら、僕は傷ついていたと思うんですね。なぜなら、自己犠牲を伴ってでも母を支えたいという思いがあったから。一生懸命考えて、大学に行かないという選択を自らしたのに、それを、施設に入れなよという提案は、僕の思いと真逆の提案ですよね。
 ですから、やはりその家族の声を聞くしかないと思っています。もしかしたら、その子に必要なことが、既存の社会の仕組みの中ではないかもしれないんです。それでもやはり、その子にとって最善のものって何なんだろうということを、大人が考えていかないといけないと思っています。
 ちなみに、当時僕が欲しかったのは、母のケアもしながら学校にも行きたかったので、例えば学校の授業に合わせてケアプランを変えてくれるですとか、夏休み、冬休みはバイトがしやすいようにケアプランを変えてくれるとか、そうしたら僕の学校生活は全然違ったものになっていたんだろうと思います。一部、神奈川のある団体でそういうことをやっている、精神保健福祉士や社会福祉士の団体があるのですが、それはすごく有効な活動と思っています。
 こちらは、この間、ある地域でケアマネさんの研修をさせてもらったときに、載せさせてもらって、ちょっと偉そうなこと言っちゃったなと思って反省したのですが、後からケアマネさんからすごく刺さりましたと言われて、これも話させていただくのですが、介護事業所であったり、医療現場などは、ヤングケアラーに出会える、すごいいいポイントだと思うんです。やはり仕事として、ヤングケアラーに寄り添っていこうとなっても、あまりメリットがないのです。介護事業所はヤングケアラーに対して関わったところで、別に上司からほめられるわけでもなければ、事業所がもうかるわけでもない。病院もそうです。看護師さんが忙しい中でヤングケアラーに関わるメリットはないと思うのですが、誰もがそれをメリットがないからやらないって言ってたら、いつまでたってもヤングケアラーが生きやすい社会、その家族が生きやすい社会ができていかないと思うので、もうそれをやるのは大人の責務だと捉えて、正解はなかったとしても、寄り添って考え抜く、そのプロセスが大事なんだと僕らは考えていて、僕らもここをしっかりと自戒を込めてやっていかなければいけないと思っております。
 あとは横のつながりです。当然ですけれども、行政、民間、教育、福祉、医療、障害、分野を超えてつながっていかないといけないと思っております。本当にヤングケアラーのいる家庭は問題が多岐にわたるので、連携ができていないといけないと思います。
 この間、LINE相談を受けていて、その子が支援を欲していたので、その市に連絡をしたんです。そうしたら、17歳半ばぐらいの子で、子供の部署はうちじゃありませんって言われて、高齢の部署も障害の部署も、うちじゃありませんって言われて、本当にその子はもう、10年以上、障害のある兄弟と下半身不随のお父さんのお世話を1人でしてきて、お母さんは夜勤もあって、ずっと働いてて、しかも外国籍で、日本語が通じないんです。だからその子がもう本当に1人で、弟さんとお父さんのケアをしてきて、学校もやめちゃって、通信制高校に行っていて、その子はもともとは行政が把握していたのですが、もう大丈夫だと言って離れてしまって、もうそこからずっと1人ですよ。僕らがつながって連携しようとしても、うちじゃありませんって言われてしまう状況があって、それは言い方が悪いですが、最悪ですよね。せっかくつながれるポイントがあるのに、行政としてできませんって言ってしまったら、本当に意味がないと思うので、そこをしっかりと連携して支えていかないといけないと思っております。
 僕らは、支援の糸をヤングケアラーの前にたくさん垂らしていこうと言わせてもらってるのですが、先ほどの図でもありましたけれども、セーフティネット、その子が社会からこぼれ落ちてしまったら拾い上げるのではなくて、もう少し前の段階から糸をたくさん垂らしていければいいと思っているのです。今は、ヤングケアラーの周りに学校の先生という支援の糸が1本垂れているだけ、それすらも引っ張れないという状況ですが、本来は糸ってたくさんあると思っています。友達という糸、行政の支援者という糸、介護事業所という糸、民生委員さんという糸、近所の人という糸もありますし、僕ら支援団体という糸もありますし、SNS相談という糸、電話相談という糸、警察の方という糸もあれば、本当にいろいろな糸が垂れていて、地域で支えていけることができるのに、学校の先生しか垂れていないという状況が問題だと思っています。糸がたくさん垂れていれば、学校の先生という糸が引っ張りづらくても、他の糸を引っ張ればいいですし、その糸は、垂れ続けていれば、いつ引っ張ってもいい。その糸が、するって引っ張ったら抜けてしまうのではなくて、上でしっかりと連携していて、どれかを引っ張ったら、連携して支えていけるという社会が、僕はヤングケアラーに限らず、大事だろうと思っております。
 すみません、少し時間がオーバーしてしまいましたが、以上になります。

○鳥澤委員長
 宮崎様、大変ありがとうございました。
 以上で宮崎様からの説明は終わりとさせていただきます。
 これより質疑に入ります。
 委員の方にお願いいたします。質問はまとめてするのではなく、一問一答方式でお願いいたします。
 それでは、御質問、御意見等がございましたら、御発言願います。

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