本会議会議録


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平成23年2月定例会くらし環境委員会 質疑・質問
質疑・質問者:奥之山  議員
質疑・質問日:03/02/2011
会派名:自民改革会議


○奥之山委員
 この土壌汚染の中で、袋井市と書いてあるところをちょっと教えてもらいたいと思います。

 それから大井川、天竜川水系の水源状況の説明がございましたが、あの後かなり雨が降りました。多分かなり改善されたと思いますが、その後の状況がわかったら教えてください。

 それから土壌汚染とも関係するんですが、この環境政策、平成23年度から32年度とこういうことで、先ほど海の話も出ましたが、実は本会議で戸塚久美子議員が道路排水ということを言いました。これは高速道路という話だったものですから、交通基盤部長が答えて国の動向などを言っていましたが、見方を変えれば環境問題だと思うんです。
 その質問を聞いていて私自身がちょっと思い出したのは、10年か15年ぐらい前に四日市に議会で視察に行きましたが、四日市は公害の先進地で、それを退治するというそのことに一つ端を発して、まさに環境を含めて先進地になったとこういう話でした。私がそのとき質問したのは、例えば車社会になって、毎日あれだけ車が走っているわけですから、最終的にはタイヤが古くなって捨てられているわけですが、あれだけのタイヤが急発進や急ブレーキを含めて摩耗しているわけで、粉じんもあると。あのタイヤのすり減ったのが、雨が降ってそれが全部どこかに流れていく、そういうことを四日市市はその先進地と言われているので調査したことあるかってことを言ったら、そんなこと一切ないっていう話でした。
 私は、あの本会議の質問を聞いていて、第二東名のほうだから水源に近いほうをやったらどうだと、できればその排水の基準をつくったらどうだと、ドイツはもうやっているっていう話でした。やっぱりそうかなと思いましたし、沈砂池みたいのを、沈砂池というか沈殿池というか、そういうものをつくればいいのではないかという提案もされていたということで、この本県の環境施策の中にそういう道路排水を静岡県がまさに理想郷をつくると、“ふじのくに”の建国宣言だというぐらい頑張っているわけですから、国がやってなくても静岡県が、この環境政策の中に道路排水をどうするかということなんかを考えてもいいのではないかなと、あの質問を聞いていて、またこれを見て10年というんですから、平成23年からっていうとスタートしているのかもしれませんが、別に後からだって入れられる問題だと思いますもんですから、それらを真剣に考えてみたらどうかなというふうに思いましたので、質問と提言というか、考え方を教えていただきたいと思います。

 それから、消費者行政で表示法の違反があったりいろいろ出たと思うのですが、お茶の問題は来ていますか、掛川のお茶。あれだけ、深蒸し茶ということでやられているわけですが、在庫がなくなっちゃったと。ある会社なんかではもう物すごい電話で対応しきれないと。在庫がなくなっちゃうと。今の心配は、それほど売れちゃって在庫がないので、掛川と名前がついたほうがいいと、よそから持ってきて売っちゃうと、そうすると逆に言うと全然違うところのが掛川茶に化けて出るということになると、逆に物すごく静岡茶が、静岡茶というか掛川茶が打撃を受けるという、逆の現象が出るのではないかということも含めて、ちょっとNHKがやり過ぎたかなという感じがしますし、朝なんかは、みのもんたかな、あれも何かちらっとやって、そういう意味での消費者全体に与えたセンセーショナル的なものと、その逆の反動っていうのが出てくるんじゃないかなという感じがします。私は知事と会ったときに、掛川ばっかりじゃなくて静岡県じゅうのお茶がいいって言ってやったらどうだって言ったら、そうしますとか言っていましたが、そういう意味での苦情なりか、あるいは事前のそういうものを防止するようなことを消費者行政の中で考えておるかどうかということをちょっとお尋ねします。

 それから家・庭一体、知事の思いは私同感です。しかし今知事がよく言う住宅の55年体制のときあたりにそういうことが出てればもっとよかったんですが、また逆に言うとあの当時、東京含めて大都会の住宅団地、これがもう当時何十倍っていう倍率で、庭もないようなところに入っちゃうのがその当時のはやりみたいな部分があって、それが必ずしもいいんじゃないっていうことはもう初めから私なんかわかっていますが、それを今、無理やり家・庭一体となかなか難しいんじゃないかなという感じがします。
 小長井委員が質問された、まさに県もやろうとしている山間僻地とこの空き家へ都心部の人が行って、緑豊かな中で子育てもすると、それも1つの方法。また逆にまちづくりというか住まいづくりという関係でいくと、町の商店街の店舗がもうあいちゃっている、あるいは住宅街でも人が住んでいない。それがただ、人が住んでない、商売をやってないだけじゃなくて、まさにそれが廃墟と化している。廃屋と化している、つぶれそうなうちがあると。そういうところなんかを本当に家・庭一体とするならば、それを公が買い取るかどうするか知りませんが、あるいはほっとかれているものは撤去させるとか、そういう法律をつくって、それを周辺の人たちがみんなで使うポケットパークみたいにして、町の中の緑の空間的なものとか、あるいは災害のときの一時避難地だとかっていうような工夫をすれば、家・庭一体らしきものができるということを含めて、町場の中にもあるでしょうし、山のほうにもあるし、そういう工夫をすべきじゃないかなという感じがしますので、その辺をどのように考えているかお尋ねします。

○近藤生活環境課長
 最初の土壌汚染の関係で、この資料の中の袋井市ということですけども、これは平成21年度に袋井市の鷲巣にございますパイオニアディスプレイプロダクツという株式会社が工場を廃止をいたしました。それでその廃止をしたときに調査をしたところ鉛が出てきたということで、ここは売却予定がありますので、汚染された鉛を現在掘削除去して指定のところに搬入をして処理をすると、その処理をしている過程でございます。

 それからもう1つ、道路排水についてでございます。戸塚議員の御質問がありましたのは、今建設中の第二東名からタイヤが削れたりした場合に水が農業用水路に流れ込むのではないかという御指摘でございましたけれども、一般的にそういう水は初期降雨のとき、最初に雨が降ったときに流れ出るということで、この間交通基盤部長がお答えした内容が、国土交通省の外郭団体の独立行政法人の分析結果等も出ておりますので、交通基盤部でもNEXCO中日本あたりと協働して前後の調査も検討していると話を聞いておりますので、そんな状況でございます。

○山中水利用課長
 天竜川及び大井川水系の水源状況と節水対策についてお答えいたします。
 ことし1月の浜松の降雨観測――明治16年から行っているんですけども――ゼロミリという記録を出しております。さらに諏訪、飯田も観測以来1位、2位の小雨となりまして、2月の4日から天竜川の第1次節水に入りました。その後2月の中旬から雨が降り始めまして、おかげさまで2月は平年並みの降雨量となっております。今現在利水者の方々と国土交通省の浜松河川事務所と協議して、なるべく早い節水の解除を今検討しているところでございます。以上でございます。

○齋藤県民生活課長
 掛川茶の関係でございますが、私どもJAS法に基づきまして食品表示の適正化に向けての指導をしているわけでございますが、掛川茶に限って一時テレビ等での放映があった後にどの程度の問い合わせ等があったかにつきましては詳細をちょっと持ち合わせておりませんが、記憶の範囲で申し上げれば、若干その当時いろいろな電話等での掛川茶等の表示に関する質問等があったように聞いております。
 これは掛川茶ということに限ったわけではございませんが、やはり特に静岡県が特産品としてお茶、それから魚介類等もございますので、通常のいろいろなその調査業務の中でもそうした特産品であるということも念頭に入れながら、適正表示が行われるように進めてまいりたいというふうに思っております。以上でございます。

○西谷住まいづくり課長
 家・庭一体の住まいづくりの関係でございます。
 55年体制ということですね、確かに日本住宅公団発足以来、やはり労働者の住宅という観点で都市に集合住宅がたくさんできた、ニュータウンというようなことで、確かにそういったことがございまして、かつて日本の住宅に、庭だとか縁側があって、そこに座って御近所の方とお茶を飲みながら語らうと、そういうふうなものがだんだんなくなってきております。
 そういったことで、できるだけ自然と一体となるような形での家・庭一体の住まいづくりを進めていくということでございますが、今お話があったように、特に郊外はともかく都市部につきましては、集合住宅等もございますし、そういったものも戸建ての住宅だけでなくて、緑の空間あるいは花壇だとかそういったものも設けて、入居者だとかあるいは近隣の人たちがそこでいろいろ触れ合いができるような、あるいは交流を深めるような、そういった場もつくっていただけるように、これは民間の皆さんにもこういったことを広めていきたいなというふうに思っております。
 また、商店街の関係につきましては、やはり商店街の空き店舗は確かに目立ってきております。これにつきましては所管する部局が緑の空間といったものになってきますと交通基盤部もありますし、あるいは商店街のことになってきますので経済産業部もございます。そういったところでポケットパークとかあるいは多目的広場といったものを商店街に整備をするために補助事業もございますし、こういったものも積極的に使っていただけるように、この家・庭一体の住まいづくりを進める中で、他部局とも連携をして取り組んでいきたいというふうに思っております。

○奥之山委員
 道路の排水は、部長の答弁を本会議で聞いてるから、そのまま聞いただけの話で何の新しさもないわけだけど、私が言っているのは国土交通省とかNEXCOかな、交通基盤部長の立場であれを答弁したと、しかしそれは通告を含めてレクチャーをやるからだけど、本当は振り方によっては環境っていうことで、松浦部長が答えてもいいんですよね。そういう気持ちがないかどうかっていうことを聞いているわけで説明したことはわかっています。だから、環境の中にそういうのを入れてこれからやっていく気持ちはないかということを言っているんですが。

 さあそれで、この説明員の中にも6人ほどことしの3月いっぱいで退職する方がいると聞いています。後でまたちょっと一緒に答えてもらえばいいかなと思っているんですが、環境局長の石野さん、経歴を見るとこの前なんか道路局長ですね。環境破壊したような人が環境局長で大丈夫かなと思ったら、話を聞いていたら結構立派にやっているなと。だけど在任が2年だから、まさに何かの上に3年というものでもう1年ぐらいやるとどうかなと思うんですが。
 それから、青木管理局長、望月県民生活局長、石井建築安全推進課長、小澤公営住宅課長、近藤生活環境課長かな。県庁に入った人が、しばらくして何とか係長ぐらいになりたいなとみんな思うそうですが、皆さんはもう立派な管理職になってやってきたということで、いろんな御苦労もあったと思いますし、いろんな感慨もあろうと思います。そんなことで一人一人というわけにはいきませんものですから、石野さんに代表していろんなお話を聞きたいなと思っているわけです。
 今私が言ったので、まさに道路の排水、あなたは道路局長をやっていると、今は環境局長ということで、そこら辺も含めてやめられるんだから、思い切って、それを次の世代に、私は責任持ってやってくれよと、静岡県のまさに道路排水を全部やるとは言わないけれど。我々のうちの近く見ても農道でも何でも車は走っているわけですから、それはもうそのたびに排水は田んぼに入ったりしています。
 彼女の質問だと亜鉛は水生植物等に害があるんじゃないかと、銅は稲にというようなことを言っていました。ですからそれはまさに土壌汚染、河川や海洋汚染にもつながるし、食と農の何とかって言ったって、銅が入っている稲なんか売れないわけです。
 この長い県庁生活の中で、たまたま道路局長であり環境局長であったということも含めて、最後にいろんな今までの経験その他から、私の今の提案を含めて感想があったら言ってもらいたいと。長い間御苦労さまでした。そういう気持ちでいっぱいでございます。

○石野環境局長
 それではまず道路排水の件につきましてお答えさせていただきます。
 私、委員のほうから言われましたように、土木の技術屋でございます。実は土木の技術屋のバイブルとして土木学会というのがございまして、そこに倫理規定がございます。いわゆる土木の技術屋は、まず初めに環境に配慮して、いわゆるインフラ整備をして将来の暮らしや産業を支えましょうというのが大前提となっております。そういった中で道路排水の話でございますが、今私どもがつくっている第3次環境基本計画の中でも良好な生活環境をつくりましょうということで、その中で水、大気、土壌等の環境保全と、いわゆる事業者に対しましてもそれらの排出基準をしっかり守りましょうということになっています。
 確かに今の道路のタイヤの粉じん等について基準はございませんが、考え方はまさしく同じでございますので、新東名は山側につくってございます。水源地に近い、しかも片側3車線の大規模な道路でございますので、影響がないと言い切ることはできないと思いますので、先ほど課長が答弁しましたように実態につきまして調査するということでございます。したがいまして、その調査結果を見まして、県の環境サイドから、いわゆるその基準的なものの前に、まず道路づくりのほうでそれを抑えるような基準をつくるべきではないかということを環境局のほうから提案させていただきたいと思っています。そうすればそれらの基準というのは県を通じて、道路の基準をやったのは国土交通省のほうがそれを採択するような形になると思いますが、いずれにしましても少し実態を見てみないと何とも言えませんので、その辺のことを退職しました後も、フォローしていきたいと思っています。

 それで、今までの苦労等でございます。
 常任委員会という非常に大切な会議の場で、そのようなお話をしていいかどうかちょっとわかりませんが、こういった席で今までの話をさせてもらうとしますと、私たち6名は先ほど言いましたように私は土木の技術者ですけど、そのほかに建築の方、あるいは行政職の方がおります。長い人で40年、短い人でも32年という方、私の場合38年ですが、いわゆる個人差がございまして、本庁だけじゃなくて出先機関も含めまして、いろいろ仕事をしてきまして、ときには嫌な仕事があるかもしれませんけど、今をもってすれば、思い出に残る、あるいは記憶に残る仕事をやってきた人が大半ではないかなと思っています。それで、その仕事をやりこなせましたのも、同僚は当然ですが先輩、後輩に支えられたということと、さらに県議会の皆様や県民の方からの温かいサポートがあったからだと思っておりますので、改めて感謝申し上げます。
 それと、私の38年間は土木がずっと長いんですけど、今思いますと一言で言えばやっぱり短かったかなあという感じです。改めてそれを振り返るっていうことは最近になってやっとするようになりまして、今までは先しか見てなかったものですから。
 振り返ってみますと、この6名もいろいろ職種が違いますので、ポストでそれぞれの経済情勢とか県民のニーズとか、自分のポストに応じた仕事のやり方、その結果というものが多分区別されるんじゃないかなと思うので、少し3つのポストで振り返ってみることにしました。
 私が入ったのが1972年から80年代の後半ぐらいですが、当然私たちはぺいぺいでございました。そのころの本県というのは、2度のオイルショックを受けながら非常に力強く高度成長を進んでいたと思っております。その一方で地域格差とか道路の渋滞、あるいは田子の浦のヘドロというような公害問題もかいま見るような時期でした。
 ですから非常に力があるんですけど、何か生活の面で少しぎくしゃくしていたものが残されているような時期でございました。同時に七夕豪雨というのがありました。さらに伊豆でも大規模な地震が連続して起きました。そういうふうに右肩上がりでどんどん行っていたんですけど、その後で一方少し負荷がかかるものが出るとともに災害が発生しましたものですから、当時私の土木の技術屋としますと、いろんなインフラ投資に対して熱い視線がありまして、とにかく道路とか港湾、河川の整備をお願いしますよという声を非常に聞いておりました。そういった中で、今はパソコンですが昔は電卓で、かたいキーでこう叩きながら橋の設計とかをしましたし、工事費の積算とか何かもしました。そういったことをやりながら、当然災害等では市や町等の応援にも行きまして、あるいは調整などもしてきたと思っております。
 そのころの思い出といいますのは、やはり土木の技術屋としますと、よくコマーシャルでありますけど地図に残る仕事っていうものに一つ思いがあるんですよね。だからまだぺいぺいでしたから、地図に残る仕事をやれるようになるということを思っていましたし、実際自分がやらせていただきまして、大きなバイパス、思えば国道150号の磐南とか掛塚とか、473号の今供用しました東名から150号までの間、あるいは469号の富士南麓道路とか、そういった大きな道路計画をやらせていただきまして非常にありがたく思っております。
 あとは、今は非常に見る影もないんですけど、県単独事業が非常に大規模になったときです。核燃料税という特別の税をいただきまして、おくれているインフラ整備を集中的にやるという形で、いわゆる特別対策事業なんか立ち上げたのが、今私としては思い出に残る仕事になっております。
 次に、主査とか係長とか出先の課長あるいは主幹のころでございます。ちょうどそのころっていうのはバブルがはじけまして、同時に兵庫県で大きな地震がありまして、橋が倒れたのは皆さん御承知だと思います。私も現地に行って調査をさせていただきましたけど、橋が倒れるとかあるいはトンネルが崩壊するとかっていうのがございまして、土木の技術に対する安全神話が崩壊した時代でございまして、非常に土木に対して本当に大丈夫なのかなという懸念を持ちながら、オイルショックのいわゆる景気低迷を下から支えるための景気対策としまして、公共事業にかなり力を入れていたのが、その私たちが主任とか係長、出先の課長をやっていました80年代の後半から90年代だと思っております。
 そのときの社会情勢といいますと、バブルが崩壊したということもございまして、県の行政の中にいろいろな新しいやり方が入ってきました。民活という言葉が入ってきましたし、さらに地震を受けて危機管理、これが非常に大切ですよということとか、あるいは事業再評価というのが導入されました。それと、我々はハード部門をやっていた者ですけど、ハードではなかなか支えきれないものをソフト施策でサポートする必要があるんじゃないかっていうことで、ソフト施策をしっかりやりましょうということが行政の中に入ってきたような記憶も残っています。
 それと、耐震技術の見直しがございました。兵庫県の地震があって、耐震の基準の見直しがあったために、今までやっていた耐震対策をもう一回根本からやり直さなければならないということと同時に、また耐震基準について勉強しなければならないっていう形で、40代後半だと思うんですけど、勉強することに対してちょっときついなあという印象が残っています。
 そのころの思い出といいますと、新東名にかかわりまして、新東名の都市計画決定というのを県がやったんです。新東名というのはNEXCO中日本――当時は道路公団というのがやって、道路公団と国土交通省が計画をつくったんですけど、都市計画決定をするってことになってやっぱり県が出ていっています。ですから、県が出ていったおかげで非常に根回しをしまして都市計画決定を全部露払いしましたもので、第二東名は神奈川県、愛知県に比べますと、静岡県が一番進んでいて、供用が恐らく一番早くできるというのは、そういった当時の都市計画決定だと思っております。
 それに関連しまして、インターチェンジに接続するアクセス道路、これは県の業務でございますので、それらにつきまして、どこに何車線の道路を引いて、どのようにつなぐかというのを少しやらせていただいたというのが、それが印象的でございます。先ほどは地図に残る仕事って言いましたけど、実は新東名は宇宙から見ますと1つの光の帯としてどうもわかるみたいなんです。ですからちょっと大げさかもしれませんけど宇宙に残る仕事にかかわった、させていただいたなというのが印象に残っております。
 あと後半は何か中間管理職で非常に厳しい思いをしたと思っております。少し自分の経験に裏打ちされて技術力がついてからちょっとやれるかなと思ったんですけど、やっぱり上司と部下との中間でなかなかうまくいかなかったということが記憶に残っております。そんな中で思い出に残る仕事としましては、富士山のマイカー規制、環境面で非常に富士山の環境を守るという意味でマイカー規制を導入したんですけど、実は当時環境でマイカー規制をできなかったんです。それをなぜやったかと言いますと、道路の渋滞対策としてやらせていただきました。当時は実は環境面からやるという環境省の指定エリアに富士山が入ってなかったものですから、どうしても渋滞対策でやるっていう形で、それは今もずっと引っぱっているんです。でも道路サイドで渋滞対策としてやっているんですけど、結果的には富士山の環境保全にも当然効果があると思っておりますので、いい施策を当時やらせていただけたと、まさしく思い出に残る仕事だと思っております。
 あとは、道の駅も県内幾つかありますけど、それにもかかわらせていただきましたし、国道1号の有料の4つのバイパスがあって、それの夜間無料化にも少しかかわらせていただきました。
 あと、管理職になってからは、日本国が若干右肩上がりから平行か、もしかすると下がりぎみになったようですけど、少子高齢化とかが進んでいる中で、しかも国内外との大競争の中に位置づけられておりまして、非常に厳しい時代だったと。我々当時公共サイドにいたときには、予算が急激に減りまして、とても県民の要望にこたえ切れないっていうことに対して頭を悩ましておりました。同時にそのころ、管理職になって地球環境問題っていうのにかかわって、まさか私がこの環境サイドの局長になると思いませんで、余り関心をとめてなかったんですけど、だからそのころから地球環境問題に対する関心が高まってきたころだと思っています。そのころからさらに行政に対するいろいろな厳しい目が向けられてきまして、今思いますと事業の説明責任やあるいは効率化や成果重視という考え方があると、マネジメントシステムというものも行政の中に取り入れましょうとそういった形が入ってきまして、非常に従来とは少し変わった取り組みをしなければ、あるいは取り組みもガラス張りの中でやらなければならないというのが、非常に時代だなあと思っております。
 そのときには、何を公共サイドでやったかというと、いわゆる民間の方との、あるいはNPOの方との共同作業っていうのをやりました。ですから官にお金がなくなってきた中で、できたら地域の人ができる範囲のことは地域の人にやってもらう。あるいは計画づくりの段階から地域の方やNPOの方に参加していただきまして、無駄のない公共事業をやるっていうことを取り組んできたと思っております。さらにマネジメントシステムという導入では、ストックされた公共インフラのいわゆるメンテナンス、これをしなければならない。しかもすぐにお金がありませんので、つくりかえはすぐにはできませんので、ふつうは50年から60年しかもたないものを小まめに守ってやって、あるいは修繕してやって100年ぐらいもたせる。そうすることによってコストを削減するっていうような土木施設の長寿命化というのもこのころからやってきたと思っております。
 そんなことが非常に印象に残っておるんですけど、この当時ある程度管理職になりましたものですから、少し視野が広まったということと、あと他県との連携ができるということもございましたもんですから、一番の思い出に残る仕事といいますのは、実は皆さん御承知だと思うんですけど、2000年ごろに高速道路不要論というのが出ました。その余波を受けまして新東名も凍結というものが、今の東京都の副知事の猪瀬さんほかマスコミがバッシングのような形で出てきました。そのときに当時の石川知事は、言うべきことは言う必要があるじゃないかということで、我々の主張を県内のマスコミだけではなくて全国のマスコミ、全国紙のほうに打って出て、その辺の我々の意見を述べさせていただいたことがありました。
 地下鉄にも我々の意見広告を掲載して、当時お金は大分かかったんですけど、我々の主張をしっかり東京の人にわかっていただく、いわゆる都市の方にわかってもらうようなことをしたと思っています。それでもまだバッシングが非常に止まらなかったものですから、その高速道路をつくる側じゃなくて、使う側の女性団体、全国の女性団体に呼びかけまして、東京で高速道路はいかに必要かという、命の道、暮らしの道、教育の道等々でそれぞれテーマ性を持ってフォーラムをやって全国の方に高速道路の必要論なんかをアピールしたと思っています。
 なぜそれを静岡県がやったかといいますと、実は当時高速道路の一番のやり玉が第二東名だったんですね、一番お金がかかるよっていうことなもんですから。それをやっているおひざ元で、静岡県がやらなきゃどこがやるっていう形になりまして、当時1カ月ぐらいなんですかね、4月ぐらいにそれをやろうってことになりまして、北は福島、長野、新潟、当然静岡、三重、大分等々の女性団体を呼びかけまして、私も出向きまして、こういった高速道路不要論に対して皆さん本当にそれでよろしいんですかというようなことを問いかけたところ、非常に皆さん賛同していただいて、フォーラムを開催することができたのが思い出に残っています。
 普通、私も私も、欲しいよ欲しいよというのが私の女性観だったんですけど、そのときの女性の人たちは、まずあなたたちのところがやっていただければ、次に私のとこでいいですよという、その譲り合いの中で気持ちを私どもに訴えて、だからおたくが終わればうちだから一緒にタッグを組んでアピールしましょうということを何かやったような気がございまして、その女性団体の人たちが今でもネットワークができていまして、ときには会って飲んだりすることもございます。そういったものが思い出でございます。
 あと環境局になりまして、2年間でちょっと異分野でございまして、なかなか私も思い出というか大きなことはできなかったんですけど、先ほど来ありました第3次環境基本計画の中には、ふだんから思っていることを職員の人たちと議論しながらある程度骨子の中には入れさせていただいて、今後審議会での御議論の中で成案になるとは思いますけど、ある程度局としての考え方を入れさせてもらったと、その辺が印象に残っております。
 これが、私が今までの仕事上の苦労とかやってきたことでございますが、今までやってきまして、これだけはできたら後輩に託してみたいなというのは実はくらし・環境部というよりか、むしろ公共サイドの人たちかもしれませんけど、共通して言えると思うんですけど、立ち位置ですね、立場というんですかね、行政の側だけでこう立って行政を推進するのではなくて、県民や企業の立場に立って考えて、しかも公務員というがちがちの考え方じゃなくて、柔軟性とか創造性とかスピード感を持って対応していただければいいなと思っています。
 それともう1点は、よく私、去年と同じなんですねというのを職員の方に聞くことがあるんですけど、やはり同じっていうことはあり得ないと思いますから、常に見直すといいますか改革する、あるいは改善するということを心がけていただきたいというのが後輩に託す言葉でございます。
 ちょっと長々とお話しさせていただきましたけど、議員の皆様を初め多くの県の職員の皆様に支えられましたことを、改めて感謝申し上げます。今後もまだまだ人生はまだ残っていると思いますので、一県民といたしまして富国有徳の理想郷のふじのくにが実現できますよう、間接ながら御支援御協力をさせていただくことをお誓い申し上げましてあいさつとさせていただきます。本当にお世話になりました。ありがとうございました。

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