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委員会会議録

委員会補足文書

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平成22年10月産業連携推進特別委員会
参考人の意見陳述 株式会社農業技術通信社 代表取締役社長 昆 吉則氏 【 意見陳述 】 発言日: 10/26/2010 会派名:


○昆 吉則氏
 まず、お招きいただきまして、ありがとうございます。
 私、こちらの紹介にございますとおり、93年から農業経営者という企業的農家に向けた雑誌を発行するもんでございます。
 その後、おととしからはアグリズムいう若者向けての農業雑誌だとか、あるいはポテカルといいまして、ジャガイモ産業と申し上げているんですが、ジャガイモの生産から消費、流通、加工まで含めて一貫したジャガイモ産業ということをテーマにしたポテカルという雑誌を発行しております。実は、それと同時に、私、小泉政権の時代から規制改革会議、農業専門委員を務めておりまして。また、民主党政権になってからも、行政刷新会議の中で農業の専門委員を拝命いたしております。ただ、私、あくまで民間人といいましょうか、そういう立場でございまして、また、そういう立場であることということを、こういう場でお話させていただくときにおいても、肝心なことであるだろうと思いながらお話させていただきますので。いわば通常でないことがありましたら、そこはまた、お許しいただければと思います。
 まず、幾つか資料を持ってまいりましたんですが、きょう私から申し上げること、結論から先に申し上げます。
 それはですね、こちらの静岡県の農業政策、あるいは産業政策ということに関して国の農政、国の産業政策ということとは独立した形で、静岡県は静岡県なりの農業政策、産業政策を行うべきであり、その資質を静岡県であればこそ持っていると。それをお進めいただけることが肝心なことなんではないのかなということが、私の結論でございます。その上で、幾つかお話をさせていただきます。
 お手元にお配りいたしました資料でございますね。これ最初のほうから、本当に皆様、御案内のことだと思うので、言うまでもないところでございますが、2010年2月の農業センサスですね。全国統計だけ今、出ておるところなんですが、それの概数だけ出ておりますので、それを御参考まで、2005年のセンサスとの対比において、どう変わったのかということをお示ししたいためにお持ちしました。
 それで、第12図というのがございますが、ここに2010年のセンサスと書いてありますけれども、これは2005年のセンサスでございます。まだ2010年のセンサスでは地域別、県別のデータ出ておりませんで、2005年のセンサスでも静岡県の特殊性が出ているということを含めて、これをお示しいたしました。
 また、同時に、もう1枚、こういう紙を用意しております。これは、一番最後から2枚目のページにあるかと思います。これは棒グラフが、この図でございます。この棒グラフが、これは終戦直後から米軍の指示でやることになった国民栄養調査という、今の厚生労働省が現在も続けておりますが、1970年以降は国民栄養調査が国民栄養健康調査となっております。それで注目いただきたいのが、摂取カロリーが1971年がピークであって、むしろ現在は終戦直後の段階よりも低くなっているということの図。このことの、きょうお話しすることのベースになることでございますので、後で、また申し上げたいと思います。
 それで、図1からごらんいただければと思うんですが、これはいわゆる販売農家の全国数字の2010年の数字でございます。これで平成2年、7年、10年、22年と297万戸から163万戸までずっと減っていて、5年前に比べても約17%減少していると。ところで、販売農家といいますのは、1反歩10アール以上の経営耕地を持つか、あるいは50万円以上の販売金額のある農家ということでございます。これについては、また後ほどご説明します。私の一番注視しているデータでございます。
 また、次の図2は、就業人口も右肩下がりにどんどんと下がっているのをごらんいただけると思います。また、農業就業人口の平均年齢が65.8歳になったということで、常に高齢化が進んだということのデータの中で示されていることでございます。
 その次の図3は、主業農家、副業農家ということでございますが、平成17年と平成22年と比べますと副業的農家の比率がむしろ下がっておって、主業農家がふえているということを見ていただければと思います。
 また、図4は、経営耕地の面積規模別農家数なんですが、0.3ヘクタール以上5ヘクタールまでのサイズのところは、この5年間に軒並み減少しておるんですけれども、5ヘクタール以上のところでは、30ヘクタール以上になりますと20%以上、10ヘクタール以上でも10%以上が伸びているということでございます。
 それと、次に、図6を見ていただければと思います。
 図6はですね、農産物の販売金額規模別農家数、これ販売金額というのは、企業でいう売り上げでございますね。売り上げで、販売金額ゼロの販売農家というのもございます。経営耕地が50アール以上、5反歩以上あると販売農家に該当するもんですから、販売金額ゼロの販売農家というものもございます。それが50万円未満に入っているんですが、これが1億円未満まで、総じて下がっております。それで1億円以上だけは8.5%と、急激に伸びております。
 また、これは持って来ていないんですが、2005年のセンサスのときとの比較をしますと、2005年のセンサスで約59%、約6割の方々は――全国でございますよ――6割の方は、販売金額は100万円以下だというのが2005年のセンサスのデータでございました。
 その100万円以下が6割に達するというのは、だから農業がもうからないという理由として語られやすいんですけれども、実は逆に申し上げますと100万円以下でも農家の人はやめないと。逆に言うと100万円以下の人々というのは、経営として見れば、むしろ赤字を承知でやっておられる。いわば趣味的にといいましょうか、むしろ米の方がほとんどでいらっしゃるんですが、むしろ米代金よりも、それにかかわる作業労賃、肥料代、農薬代、飼料代、そういうものが大きくなっている。ましてや自家労力の人件費用を含めて考えれば、いわば家庭菜園というのが一番高い野菜を買うことと同じような意味合いでですね。むしろ赤字の農業であると。そういう意味合いでいうと100万円以下の農家が多いというのは、むしろ農家の貧しさではなくて、農家の豊かさというものを示しているのではないのかな。しかし、このことが急激に変化しております。それが図7をごらんいただければと思います。
 農産物の販売なしという農家が、平成17年と22年では30%減っているんですね。数が減っているんです。販売した農家というのも14%減っているんです。これはどういうことかと言いますと、今まで、これ、こういう公の場所ですから、表現に気をつけなければいけないんですけれども、おじいさんが農業をやっている。息子、孫、ひ孫たちは普通のサラリーマンである。普通のサラリーマンが、おじいさんが農業をやっておすそ分けをする。親戚縁者、あるいは残りを農協に出荷するというような形でやってるときの赤字補てん分を、言ってみれば、息子や孫、ひ孫たちのボーナスで負担してきた。
あるいは、おととしあたりに非常に肥料代が上がりました。肥料が上がるということは農薬や化学肥料、みんな上がるということでございます。あるいは、当然のことながら、資材費が上がるということは、機械も、その他の費用も全部上がるということです。そういうことの中で、今まではおじいちゃんが体、ぼけるぐらいだったら農業やってもらったほうがいいと。そのほうが家は幸せであると。その分の家計負担がふえたとしても、しょうがないだろうと思う方々が多かったわけですが、ここまで、いわばおじいさんの趣味の農業、です。
 それを賄いきれない家庭というのがふえまして、実際、私どもの農業経営者の読者というのは、全国で、自分で農地で生産をするだけじゃなくて、大きい機械を持っておるもんですから、作業を請け負う人々が多いわけです。そういう作業を請け負う人々が作業代金を回収できないケースというのを、この5年ぐらい非常によく聞いております。そういうような意味合いで、今まで、これまでの何十年間の間やってこれたことが、一般の機械化兼業と言われることはございましたけれども、そういうものが徐々に成立してこなくなってしまった。それは米価の逓減だとか、そういうことも含めてあるわけですが、そういう中で2005年と2010年の中で、大きく農業の社会というものも変わってきているんではないのかなということでございます。
 それで、この図をごらんいただきたいと思います。先ほど申し上げました。私が、農業のテーマで、むしろ農業が、これまでのパラダイムと違った形で考えねばいけないし、これまでの時代と違った形で農業を、先進国である日本の中で考えれば、それは成長産業たり得るという話をするときのベースになってることでございます。
 先ほど申しました、この棒グラフでございますが、1946年、終戦直後の日本人の摂取カロリーは、そのときに1903カロリーでございました。この時代は農民が半分おりましたわけですし、ほとんどの労働力というのが人力に頼っていて機械化が進んでおりませんでした。人々の必要カロリーというのは2000カロリー、2500カロリーと言われる時代でありました。その時代に終戦直後には1903カロリーしかなかったということでございます。それが農地改革や農業技術の進化、あるいは経済の安定化、日本人の兵隊の復員というようなことを含めまして、農業生産が発展していきまして、供給カロリーがふえていく中で、国民の摂取カロリーもふえてまいりました。特に1964〜1965年。60年代の中以降ですね、これが急激に伸びているのをごらんいただけると思います。
 そして、1971年、国民1人当たり、1日当たりの摂取カロリーが2287カロリー、これが日本のピークでございます。これは1971年のことでございます。これを米の減反政策と見比べてごらんいただければいいと思います。米は1968年ごろから供給が過剰になりました。それで71年から減反政策が始まっております。
 71年といいますのは、昭和46年。昭和45年が70年でございます。1970年といいますと、その60年代の末に、さまざまな政治的にも混乱がございましたし、でも、その混乱は、政治的にはございましたけれども、経済的には非常に成長していた時代だったと思います。
 それで、1970年に大阪万博がありました。実は1970年って日本の食においても非常に象徴的な年でございました。マクドナルドが銀座にできたのが70年でございました。あるいは、ファミリーレストランのすかいらーくが誕生したのも70年でございます。そして、日本で冷凍食品だとか、そういうものが急激に伸びたのも70年前後からでございます。いわば、これまで日本というのは欠乏の世界で、欠乏の対策が国家の使命であり、リーダーたちの使命だったと思うんです。ところが、この欠乏の社会からですね、70年を境に人々は空腹から満腹になったという言い方ができるんじゃないかと思います。それで、71年をピークに日本人の1人当たり、1日当たりの摂取カロリー、供給カロリーはどんどんふえておりますよ。摂取カロリーは、それ以後、ことしに至るまで下がり続けているんです。2004年、もう既に数年前でございますが、2004年の段階で終戦直後のレベルでございます。
 そして現在では、終戦直後よりも摂取カロリーが低くなっております。考えてみれば当たり前のことでございまして、我々、肉体労働から解放されておるわけですし、同時に70年に、二十歳をちょっと過ぎていた私はもう60歳を過ぎたわけですし、団塊の世代も60代になったわけです。そういう中で、我々が摂取カロリーを減らすのは当たり前でございます。
 今、私どもの雑誌では、食料自給率ということを語ることは、日本の国家のために、農業生産のためにも、全く無価値なことであるという主張をして、そのことが非常に話題になったりもしております。むしろ我々は日本という国の中の食料自給率を問うよりも、我々、日本という国、あるいは日本の農業を含めてですね、日本国内、あるいは海外においてのマーケットシェアをいかに高めるのかと、そういう中で安定した食料調達ということを、国内外問わず行っていくことが重要だということを申し上げています。そういうことの中で、とりわけ農業というのは、まず国民を食べさせるということからテーマが始まったかと思いますけれども、じゃあ欠乏の社会のときは足せば解決します。足して欠乏を克服することは、今の現代において簡単なことのように思われます。だけど問題は、欠乏の克服よりも、過剰の克服のほうがより困難な問題であるということであって、人々の生理においても社会の病理においても、我々は今、過剰の病理の中にこそいるのであって、それをどう克服するかというのが政治においても、産業振興においても、農業振興においても一番肝心なことだろうと思っております。そのとき、制度的、政策的に対応する。政策の対応は必要なことでございますが、政策の対応ということが、例えば、欠乏をなしているところに足し算で加えるということよりも、欠乏を、あるいは自分の弱さを語っているところを、むしろいかに励ますのかと、そして農業だけのことではなくて、産業全体として、我々の可能性をどう高めていくのかということを考えなければいけないということが、我々の雑誌の主張なんでございます。
 それで、今、棒グラフに摂取カロリーをお示ししました。それで、線グラフで見ておるのは、これ米価でございます。摂取カロリーが、米の過剰が68年ごろからだ、摂取カロリーは、ピークが71年だと申し上げましたけれども、米価は、その後も85〜86年まで上がり続けました。これ米価が上がった理由というのは、農民運動の結果であると同時に、この間、日本の産業が成長して、一般の勤労者の所得水準も上がっていくことにつれて、それにあわせて政策的に米価を上げていくということだけを農業政策にしてきたからです。むしろその結果が、今の農業、特に水田農業のおかしさを招いているわけですが、その結果、米価を守るということの結果ですね、1995年からミニマムアクセス、とりわけお米の約800%という特別な関税をつけていることへのペナルティとして、現在では77万トンのペナルティの米輸入を日本は課せられているわけです。そういう中で、相変わらず減反政策を続けようとしているというのが、日本全体の姿でございます。
 それで、12図をごらんいただきたいと思います。これは、先ほども申し上げましたように、2010年センサスだと書いてありますが、これは申しわけございません。間違いで2005年のセンサスでございます。2005年のセンサスで全国の数字、北海道の数字、都府県の数字、そして静岡の数字を主業農家、準主業農家、副業農家という形でお示ししておるわけですが、2005年の段階で約5割が副業的農家というのが静岡県でございます。全国で見ると54%でございます。北海道だと20%、都府県でも55%は副業的農家、24%あるという準主業農家という方々でも、先ほど申し上げましたように、むしろ経済的には農業に全く依存してない方々というのは多いということで、これから5年後の2010年のセンサスのデータ、県別のやつが出てくれば、もっとはっきりとした静岡の特徴があるんじゃないかなという気がします。
 実は第1次農業基本法が、1961年、昭和36年に執行されまして、もう既に、それは終わっているんですが、私は静岡県の最初の農業基本法の考え方というものは間違ってなかったなという認識をしております。それは選択的拡大ということでございます。それぞれの人々の得意分野、得意能力にあわせて成長して農業の分野においてもやっていこうと。農業に限らず人生、人間を考えたときに、利点に歩を進めてということを考えるのが極めて自然なことで、それを全く、その政策にぴったりするような発展を遂げたのが、実は静岡県ではなかったかな。それは、静岡という気候風土、富士山の水に恵まれた水、豊かな土、温暖な気候というものがありますのと同時に、産業的に成長していたということが非常に大きいかと思います。
 私、農業の雑誌をつくって、農業を専門に仕事をしているものですが、農業というのは農業自身の成長で農業が発展するということはあり得ないのです。農業というのは他産業の成長があってこそ、農業は成長、発展するのであると。農業の問題を語る人々が、常に農業就業人口の減少を問題視し続けてまいりました。しかし、個々のお百姓さんたちと言われてる人たちは、農家であることを望んだのではなくて、かつて、それ以外に食うすべがなかったから農業を選んでいらしただけだと思うんですね。だから兼業農家のチャンスが恵まれたとき、昭和40年代の初めごろからです。積極的に、その当時、機械化貧乏だ、過剰投資だとか言われながらですね。機械化をし、積極的にほかの産業労働者として変わっていったわけです。それが兼業、非常に特殊な、世界の中でも特殊な兼業のスタイルを日本は持ってるわけですが。僕は、それは農業政策ではなくて、日本の産業発展としては、まことに成功であったんだというふうに思っております。その上で、とりわけ静岡県の場合は、いち早く米中心の農業から転換してですね、お茶であり、かんきつ類であり、あるいは野菜でありというようなところに転換をしてまいりました。それで、お茶もある時期までは非常に産業的によかったですし、園芸分野もようございました。だけど、それ以降、また違う状況になってきています。
 先ほど、兼業化の話をしました。機械化兼業という話をしました。皆さん、農業の機械化、日本においての非常に特徴的な事柄があるんですが、特徴的な事柄は、日本の農業機械化というのは稲作の機械化でございました。稲作の機械化が米の主産県である東北や北海道で最初に進んだのかというと、そうではございませんで、農業の機械化が一番最初に進みましたのは福岡県であり、東海道のベルト地帯であり、北陸の3県だったんです。それは、その地域にお住まいの農家の方々が、機械化をすることで勤め先に恵まれていたということですね。北九州の工業地帯があり、東海道のベルトの産業地帯があり、北陸の繊維産業の地帯があり、そこが稲作の機械化を先行して進めたんでございます。
 それが、農業の社会というよりも、日本の農村社会の発展だったと。農家の暮らし方の変化だったんだと。そのことを農業経済学者や多くの人々は高い機械を買うから畑に出なければいけない、出稼ぎに出てなきゃいけないというような、逆立ちしたものの見方をしておるものでございました。今は、そういうことをおっしゃる方は少ないとは思いますが、それは昭和40年代の最初から40年代を通して、そういうことがおったわけですが、既に昭和40年代の中ごろに我々は欠乏から過剰の社会に移っていったと言いました。過剰な社会の中で、農家がどういう暮らし方をするかではなくて、農業が、その社会の中でどういう転換をしていくかということの中でいきますと、新しい、人々が腹をすかしていない時代で、どういう農業が成立していくかという形でも農業の形を考えなきゃいけないのと同時に、新しい時代の中で人々がどう暮らしていくかということにおいても、変化をしなきゃいけないと思います。それで、先ほど静岡県が第1次基本法の精神に乗っかって米以外の分野を成長させたこと、それは文字どおり成功したということがありました。
 ところが、そういう分野で成功したお茶であり、果樹であり、園芸であり、そういう分野はですね、ここにきて、またもう1つのつまずく時期に来ているような気がします。例えば、典型例がお茶でございます。お茶は全国の中でも静岡が圧倒的な強い地位を、かつて持っていたわけですが、今、静岡の技術を持ち込みながら、例えば大分県なんかで県行政なんかも支援しながら、大規模なお茶畑の造成が進んでいたり、宮崎県や鹿児島県などでも、非常にそういうことが進んでおります。
 そこでお茶畑をやっているのは、お茶のような、かつての篤農家的茶生産者というよりも、やっぱり事業家意識を持った企業人でございます。そういうことに、呼応するかのような産業育成というのが、典型的には大分県の行政で進んでいるような気がいたします。
 それに対して、いわば静岡のお茶、これは本当に地域の誇りである産業であり、地域の文化でもあるかと思いますが、それゆえに変化が進まないということがあって、私の読者にも、私の仲間にも静岡のお茶にかかわってくる人々がたくさんいるんですが、この数年の静岡のお茶生産者の様子を見ると、非常に厳しい環境にあるように思います。ただ、この厳しい環境というのは、実は今、農業の中で米一般で言われていることと同じことではないのかと。マーケットが変わっていく、ほかの競争産地が変わっていく中で、変わっていくマーケットに対して、自分たちが、本家本元であるという自負心だけではなく、新しい商品やサービスが、今のマーケットの中でどう支持され、受け入れられていくかということを、加工産業の方々だけではなくですね、生産者に至るまで、一気通貫でそういうことをつくっていくことは古い産地であるがゆえに難しいという要素を持っています。でもそういうことを変えていかざるを得ないというのが事実でございますし、そのときに、今、お茶農家の方々、かつての水田の農家の方々も含めて、決して貧しい農家とは言えないと思います。米の、先ほど2005年からに2010年の結果が出てくると、趣味的におやりになってらした方が、どんどんやめていかれたんじゃないだろうかと。そういうことが、僕は、こういう表現というのは、ある方にとっては非常に聞きづらい失礼な表現をしているかのようにも聞こえるんですが、実はこういうことを我々直視しながらですね、本当に地域の中で産業として伸ばしていくのをどうしたらいいのか、そういうことを私は考えねばいけないんだと思います。
 また、その中で、実は静岡県だけでなく、私は農業に関して、これまで農業がカロリーを供給する産業であったと。でもカロリーは、既におなかいっぱいの日本人にとって要りませんということでございます。そのとき、例えば東京のお客さんが山形や岩手、あるいは長野や新潟の農家に、高い運賃をかけて蓄えのお米を買っておられるケースがたくさんおいでになります。それは、その方のお米がおいしいから、安全だからと、とかく言われますが、本当にそうでしょうか。むしろスーパーでもっと安くて、おいしい米があるかもしれません。でも、そういう方がお買い求めいただくのは、実は、その農家とおつき合いしていること、あるいは、その農家の背景にある風土や文化や、そういうものを一緒に消費するといいましょうか、僕は、これを農産物の消費からおてんとうさまの消費だと申し上げておるんですが、そういうことを含めまして、農業の果たす役割って変わってきてるんじゃないのかと。そういう意味合いにおいて、農業が非常に付加価値のある産業をつくっていく。付加価値のあるビジネスの、単に物としての付加価値だけではなくて、その提供のされ方、サービスのあり方、それは別に直接的なサービスじゃなかったとしても、提供されることに、どれだけの言葉がついているか、そういうようなことを含めて、商売人の差がついていくんだと思います。
 静岡でイチゴの生産をしている読者がおいでになりますけれども、その方はイチゴをつくりながら、観光いちご園をやり、その結果として、地域のスーパーでは、ほとんどの店で彼のイチゴを、イチゴ屋さんのイチゴと言って置いておられます。実はその静岡の富士宮のあたりでもイチゴの生産者はどんどん減っております。でも、残る人は残って、逆にその方は、今までのイチゴの人よりも大きな満足を与えておいでなんじゃないのかなと。実は、そういう方々を、むしろ励ますこと。そういう方々に追いついて、追い越してやろうという若者がどんどん登場すること。そういうことが肝心なんじゃないのかなと思っております。
また、それこそ、こちらに矢崎総業さんがございますが、つい先日、矢崎総業の会長さんにお目にかかって、お話を伺いましたら、世界の36カ国に工場があるんだそうでございます。そこの工場の、かなりのところは、既に社長さんは日本人でないというところも多いそうでございます。ところが、僕に相談をかけられましたのは、矢崎さんがお進めになっている自動車部品の産業はやがてだめになると思いますと。でもオーナー企業として、それを、だから首を切るというのは、自分にはしたくないと。そうだとしたら農業にかかわることで、新たな仕事を、そこでできないだろうかということを御相談をいただいたんです。それは私が農業もメイド・イン・ジャパンだけじゃなくて、メイド・バイ・ジャパニーズという、日本人がかかわることで可能性が開けるんじゃないでしょうかということを申し上げているからなんですが、これまた話がもう1つ変わります。
実は、この前ニュージーランドの農業大臣が日本に来ておりました。また、私どもニュージーランドだとか、オーストラリアのビクトリア州だとか、西オーストラリア州だとか、そういうところの農業投資のコンサルタントをやったりしております。あるいはことしの8月には東欧のウクライナで米づくりをしようというので行ってまいりました。実は、そういうことの典型例として多くの読者や、いろんな農家の方に呼びかけるときですね、ニュージーランドのキウイでゼスプリという会社がございます。そのゼスプリという会社のキウイは、日本でゼスプリブランドで、ゼスプリの品種を愛媛の農協が契約栽培でつくっているんです。日本のかんきつ農業が滅びると言ってですね、自由化を、愛媛経済連を中心として第二の闘争をしました。でも、日本のかんきつは消えたでしょうか。高齢者はやめていったかもしれませんけれども、消えていきませんでした。じゃあ同じように静岡のミカンはどうでしたでしょうか。消えていきません。残っていらっしゃる方は国産であるレモンということを逆に商品にしたり、逆に言えば日本には、もともとなかったようなオリーブが産地化したりしております。そういう、新しいことをやる人はやられるんですね。
それで、ゼスプリはですね、日本で佐賀県だか三重県だか忘れました。あるいは間違いないのは愛媛県です。愛媛県の農協に、ゼスプリは契約栽培で、ゼスプリブランドのキウイをつくってもらっているんです。それを日本でも売り、韓国やほかの国々にも売っているんです。当然のことながら、ニュージーランドでもつくって、それをやっているんですが、そういうことを展開してやってる上で、それなのに日本は輸入をとめる。あるいは山形の佐藤錦の苗木がオーストラリアの人に盗まれたと言ってクレームをつけるんですけれども、それだったらなぜ、山形県の人がオーストラリアやニュージーランドに行って、自前のブランドでサクランボやミカンをつくらないんですかと。世界じゅうで日本のデコポンだとか、ハッサクだとか、かんきつをつくってます。でも日本人ブランド、日本のブランドはどこにもありません。それは日本のマーケットがあまりによ過ぎたために、農業にかかわる人々が外に出ていくことがなかったからだと思います。それは言ってみれば産業界の発展があって、その恩恵に農業が浴してきたからだと思います。
 でも、先ほど来、申し上げておりますように、静岡というのは独自の発展、農業においても独自の発展を遂げております。またその上で新しい頂に来ておるわけですが、そのときに60年代にそれを越えていった勇気、それと同時に静岡県にある、さまざまな産業と連携しながら、また静岡県にあるマーケット、あるいは静岡県であればこそ、ほかのどの県にもない、さまざまな魅力を持った農業生産の可能性、あるいは農業を核としたエンターテーメントや教育産業の可能性ということを含めて考えていただくこと。農業を保護的に何かを考えるというよりも、そういうことを農業だけの問題とせず、ほかの産業との連関の中で協働して発展して進めていくことを、地域のリーダーである皆様方が、特に勇気を持って御発言いただくこと、また、そのときに、決して米政策が政策のベースになっている日本の農政に縛られることなく、静岡県は静岡県なりのですね、農業政策をお持ちになることが、私は日本の範となり得るし、これからの成長発展のかぎになるかと思っております。
 少し時間が長引きましたが、お話しさせていただきました。どうも失礼いたします。

○野澤(洋)委員長
 どうもありがとうございました。
 以上で、昆さんからの意見陳述は終わりました。これより質疑に入ります。
 委員の方にお願いいたします。
 質問はまとめてするのではなく、一問一答方式でお願いいたします。
 それでは、御質問、御意見等がありましたら御発言願います。

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