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委員会会議録

委員会補足文書

開催別議員別委員会別検索用


平成21年10月海外就航地交流推進特別委員会
参考人の意見陳述 日韓文化交流の有識者 金兩基氏 【 意見陳述 】 発言日: 10/27/2009 会派名:


○金兩基氏
 アニョハセヨ、こんにちは。ただいま御紹介いただきました金兩基です。委員長から言われたように、どうも悪名の方がとどろいているようですが、これだけソフトでマイルドですので、忌憚なく意見を交わしていただければと思います。
 私は、よく県の仕事をするときに、ほとんど晴れるんです。県の人たちが、「晴れ男」と言うんです。つい先日の土曜日も国民文化祭で韓国から人が来たので、どうしても一緒に顔を出してくれということでしたが、朝まで雨が降っていたのが晴れたんですね。やはり、言ったとおり晴れ男と。晴れ男というのは、後に何か結果が出るんですね。きょうお招きいただいて、きょうも結果が出て晴れてというふうに期待をしながら参りました。
 それでは、皆さん座っていらっしゃいますから、私も座らせていただきます。座ると、僕は余りリズムがとれないんです。私は75歳を超えたんです。76歳になったんですが、それでも立って90分ぐらい講義するんです。大学院のゼミだけは座ってやるんですがね、座わらないとリズムが出ないものですから。きょうは大学院の博士課程のゼミのような気がいたします。それでは、始めます。
 委員長とは旧知の間でして、ふたをあけてみたら、「あれ進吾さんが何で。これ断ったら後で大変だなと思って引き受けてよかったな」ということでした。その前に前林議員からそういう話があって、「できれば断らないでくれないか」ということでありまして、そういうしがらみもありまして来ましたが、非常にいいテーマであろうと、私はそう思っております。
 初めに、ちょっと申し上げておきたいことがあるんですが、ただ韓国から人を招きたいという一回こっきりでは意味がなさないものですから、中・長期的につながりのあることを考えて申し上げるべきだなというふうな思いで参りました。中・長期的なことが、非常に苦手なエリアだと思います。私は静岡に来たのが1987年ですが――22年ぐらいになります――随分いろんなことを仕掛けてきたんですが、その中で中・長期的なことが非常に苦手だと。そして、私はこう言っているんですが、モデルを追いかけることが好きなところだなあと。モデルをつくろうとする覇気が、発想が弱いんじゃないかと、ずっと僕は言い続けてまいりました。それで、今、そういう時代を超えようという動きが時代の流れでございますので、そういう意味で、中・長期的な示唆からきょうのテーマに取り組んでみたいなと、そういう思いがいたします。
 よく両国の首脳が、これまでのほとんどの首脳が共生時代、未来志向という問題提起をします。これが実ったことがあるんでしょうか。途中でほとんど崩れちゃうんですね。崩れてしまう。今度民主党が政権を取ったんですが、自民党時代はだれかが、高官がトラブルになるような発言をする。それが繰り返される。せっかくうまくいきそうだなと思うと、その一発でパアッと崩れてしまう。静岡は、その歴史を踏まない方がいいだろうという思いがいたします。せっかく構築してきたものが、一瞬にして崩れかかるんですね。そしてまた、回復するまでに物すごい時間がかかる。だから、現在のような状況にあると思います。
 韓国との仲のいい関係というと、市民たちがつくってきた韓流ブームと言われるものですね。これは、政治や行政がつくったものじゃないんですね。市民がつくってきたものが、これだけ今盛んになって、主役のヨン様はもういろんなところで引っ張りだこで、ヨン様が来たら、物すごいんですね。私は、ヤン様なんですけどね、ちっとも来てくれないんですね。そういう意味で、そういうことが市民交流でつながってみて、ここまでブームになるとは思いませんでしたが、なりました。そして、後ほど話をしますが、朝鮮通信使が韓流ブームのルーツという言葉を、私は韓国にも日本にも発信しております。その話は後ほど申し上げたいと思いますが、なぜ中・長期的目標の交流と言うかというと、現実的なことだけだと短命に終わるからです。ポイントだけができるんですが、ポイントを幾つか続けても、ポイントは橋げたですから。橋がつくられても渡れなきゃいけないんですが、橋げたはつくったけども、渡れる橋はつくれなかったというのが、これまでの多くの交流のあり方だったろうという思いがあります。
 つい先日も、国会で衆議院、参議院たちが質問をするときにいろいろな文書を作成する仕事をしていた国家公務員で、もう定年になって社会に出ている方から質問をされました。「先生、35年」――彼が35年という言葉を使うぐらい歴史には明るいということですね、35年と数カ月ですが、満でいくと35年になります――「植民地時代を倍近く過ぎようとしている。なのになぜ今、まだ何かが起きると歴史問題が表へ出てくるんですか」と質問されました。この質問を受けたのが今月です。どう思いますか。そういう思いでいる日本の方は、結構いるのではないかと思います。日本の方は「またかいな」ということになる。建前では「つき合いましょう」と。でも本音でつき合うということに対して、どうしても身が引く、心も引くもんですから、なかなか本当の交流が生まれてこないのですね。でも、両国とも市民交流を盛んにしましょうという動きはあるんですが、それを超えられない、続けられない。それで、彼も僕にそう聞いたんですね。「あなたほどの識者側からそういう言葉、質問を聞くとは僕は思わなかった」と。それで、私はこう言いました。「35年間の植民地化。その間に受けた教育を、心の中から消し去ることがどれだけ難しいかと考えたことありますか」って言ったんです。そしたら、「ない」と。
 それで戦前に、朝鮮の文化、朝鮮の歴史を教えた教授たちは全員日本人です。その日本人から韓国人――朝鮮人と呼んでもいいですね、コリアンときょうはあえて言いましょうか――教わったコリアンが戦後に教えたんです。その中で、自分で点検しながら歴史を教えたけれども、歴史的な基本は植民地時代の皇国史観に基づいた朝鮮史、朝鮮文化論です。それは明らかに日本優位に、日本の目から見た日本が優位な立場に立った上で見た歴史観です。その彼らに教わった世代が、僕らの世代です。70年代。その世代から教わった人たちが、また教壇に立ったんです。
その教壇に立った1人がシン・ヨンハさんという方で、ソウル大学の教授でしたが、もう定年退職して社会復帰をしています。彼は、民族史観のトップと言ってもいいくらいの人で、日本との問題では、しょっちゅう出てきます。彼に僕がインタビューしました。そして中央公論に載せました。彼はこう言いました、彼の研究室でね。「金先生、私も師匠の流れをくんでいて完全に払拭できていません。私が期待するのは、今、夜の12時まであそこで学んでいるあの学生、そしてデモをしている学生、この2つに私は期待をかけます。何もしない、ただどっかに就職するために勉強しようという者に期待はかけません」と言いました。これをそのまま僕が中央公論に載せています。そして、「私が教えたこの子らが初めて韓国のアイデンティティを持った人間になっていく」と。「彼らが教壇に立ち、社会の中心になったときに、初めてひとり歩きができるんだ」と。
植民地というのが、これほど大きな問題を提起するとは私も学んでいる間は気づかなかった。このことを理解している日本の方は、どのくらいいるでしょうか。皆さん、このことを今までに理解していたという方がいらしたら、ちょっと手を挙げてみてください。いないと思います。じゃあ、これ間違っていると思う人いますか。これ間違っていると思う人。いないのですよ。ですから、35年の倍をかけてもクリアできない。これが植民地の時代を生きてきた姿です。だから、日本人を憎むんじゃないんです。日本の行ったその政策、植民地の被害をこうむったこと、そのことで発奮すると、日本人を憎んでいるのではないかというふうに日本側で受けとめちゃう。この人たちと、韓国の市民同士が交流ができますかね。できないじゃないですか。だから何が問題かと言うと、その心の交流が妨げているものを取り除かないと、本当の交流はできないのです。
 ところが、アメリカと日本は鬼畜米英という――僕は国民学校ですからね、鬼畜米英で教わったんでしょうね――その鬼畜米英とは大の仲良しになって。かつて日本人です、僕ね。それなのに、そことはいまだに距離がある。中国も同じですね。そのことを乗り越える、そういう乗り越える交流の発信地に静岡がなってほしいなあっていう思いがあります。
 静岡に来ましたときにね、静岡が変われば日本が変わるという、そういう典型的なエリアだということを初めて知りました。それで、僕はいろんなことを県とも行政とも仕掛けて形になりました。「人権啓発センター」もその1つです。「朝鮮通信使」もその1つです。「文化の風を」という会を、私が立ち上げたのもそれです。そのときに、天野委員長もちょっとかかわって――市長の時代でしたから――いたので御存じだと思いますが、そういう仕掛けをしながらも、つぶされずに22年間生きてきたこともまた確かな事実じゃないですか。どの事実を大事にするかということを、きょうの話の中から酌み取っていただければという思いがいたします。
 そして、この痛みを抱え、その痛みを自力ではいやせなかった。それがやっと自力でいやせる時代を、21世紀になって迎えています。ですから、真の交流をするタイミングとしては遅過ぎたけれど、今はグットタイミングだというふうに私は思います。
 さて、その日本人ですが、江戸時代に日本は鎖国だったでしょうか。しばしば海外の人と会うと、また、アメリカ人に日本人が会うと「日本は鎖国だった」という話をよくする。「だから外国とのつき合いが下手なのか」ということをよく日本人から聞かれるんです。「ドクター金、君はどう思う」って質問される。日本は鎖国でしたか。どうでしょう。教科書では鎖国のように習ってきましたよね。鎖国ではなかったのです。その鎖国ではなかったという歴史の発信地がこの静岡であることを、きょうは中心的に話をさせていただきます。
 それで、これはもう、今は教科書でも学校でも日本は鎖国であったということを教える先生は非常に少数になったと思います。鎖国ではなかったのです。でも、鎖国と思わせてきた教育を施されたことも事実です。そういうことだったんです。国書を交わして――国書というのは国のトップが交わす書ですね――200年以上平和交流をした時代なんです、江戸って。その国書を交わした国はどこだと思いますか。ポルトガルですか、スペインですか、中国ですか、朝鮮ですか、どうでしょう。朝鮮王朝なんです。その朝鮮王朝との交流は、総称を朝鮮通信使と言います。そういう意味で、私は東京新聞が主催した、東京の日比谷公会堂を使った2007年のシンポジウムでもその話をしました。韓流ブームのルーツは朝鮮通信使、その朝鮮通信使が60年以上、言ってみれば100年間日本の歴史の表舞台から消されてきました。この事実が、そのまま社説にも出たりしました。中日新聞と東京新聞は同じですから、社説が同じように出ました。これは、2007年のことでした。その話をさせていただきます。
 一言で言いますとね、静岡は朝鮮通信使に関する歴史と文化遺物の宝庫です。他県にはない宝を持っています。他県にない宝は何でしょうか。朝鮮通信使を仕掛けた人がだれかというと、これは徳川家康。徳川家康の遺体を葬っている久能山東照宮があります。そして、政権時第1回目のときからの数々の通信使の文化遺物が興津の清見寺に残っております。これは他県にはないのです。そして、駿府城で朝鮮通信使を迎えたという歴史が――駿府城は焼けましたけど――残っている。そして、それの一次資料が残っている。この3つの宝を持っているところは、日本全国にないんです。鞆の浦に福禅寺というのがあります。でも家康はいません。そういう点では、家康の大御所もありません。駿府城もありません。ですから、あるのは通信使の遺物だけです。静岡は歴史的な背景、江戸時代を開いた家康、その遺体を葬っているところがある。ただ1点、私は確認しなければいけない部分があるんです。日光の東照宮ではなくて、家康を葬っているのは静岡の久能山東照宮だということを言っています。ところが、最近、日本の歴史書の中で遺体は日光に移送したという資料が出てきたんです。それで私は落合宮司に――僕、久能山東照宮の宣伝をいっぱいしているので、落合宮司もそういうことでよく知っているのです――「落合宮司ね、遺体はここですよね」と。「間違いありません」と言われたんです。私はこの資料を落合宮司に送って「遺体が日光に行ったとすれば、私はうそになっちゃうから」と。招魂になっている――魂を招いて日光に家光がというのが私の見解でありました。このことはこれから確認しますが、今現在、遺体は久能山東照宮に眠っていらっしゃるということです。
 徳川家康は、韓国では人気です。私は1964年、初めて韓国の大学に招かれて、戦後初めて行ったんですが、行ったときに、徳川家康について書かれた山岡荘八の全集が訳されているんです。1964年ですよ。というのは、1965年が日韓交流が生まれるわけですから。日韓条約が生まれるわけですね、新しく。その前年度に、学生がデモをして大変な時期に僕は韓国へ行ったんです。そのときに売られているんですよ。それで、どういう人が買うのかと思って本屋さんに尋ねて行きました。そしたら、中小の企業家たちが読むんですって。ああそうか、家康の人術――人を使うことのうまさ、そこに魅力を感じているのかなと。今も韓国でその全集は売られています。徳川家康の人気と豊臣秀吉の人気はこんな差(とても大きいという身振り)です。これは、活用するに値する資料だというふうに思います。
 さて、私が静岡に来て朝鮮通信使を仕掛けたのは1987年です。静岡新聞とSBSが暮れに訪ねてきまして、「1988年のソウルオリンピックのときに市民と市民のテレビブリッジをやりたいんだ」と。「そのことのアドハイスをしてほしい」と。それで、私はいろんなアドバイスをしながら、キャスターは全国レベルでこういう人が務められるんじゃないかとアドバイスしました。ところが、SBSが翌々年――1988年に入って「このキャスターも引き受けてくれ」って。それで、当時中国と韓国は国交がなかったものですから、私は中国へなかなか行かれなかったんです。ところが、同時期に中国から私に招待状が来ることになったんです。私が中国へ行くということで、SBSが――今でも破られてないと思うんですが――破格の出演料を提示してきたんですよ。静岡もおもしろいところだなと思ってね。静銀も静岡新聞も渋ちんということを聞かされていたんですね。いろんなところが分細しているから1つの形では出ないんですが。そこまで僕を引き止めたいという、その覇気というか、意気に感じて、私は中国に行かずにやりました。
それで、藤枝のJCが仕掛けたんです。JCの力だけではできないので、広告をいろんなところから集めて大きくしたんですね。藤枝の平安閣に、そこの壁ぐらいのスクリーンをつくりました。清見寺の朝鮮通信使の遺物を撮影してきて、そのスクリーンに映し出せと。それを僕はソウルに向けて――平和時代のシンボルだと口で言ったって信用してくれないですから――それを映し出してソウルにやって、ソウルからコメントをさせようと思ったんですよ。始まる5分前にね、「先生、きょうは出ません」。そしたら、僕は上がっちゃったんですよ。それを想定してボールを投げようと思ったのにね。「どうして」って言ったら、「映像のできが悪いからだ」と。ローカルな局って、そんなこともやるのかなと思ったんです。1年後に本音がわかりました。撮りに行かなかったんです。通信使って言われても、わからなかった。そして、だから新聞の文化部へ聞きに行った。文化部でも「何言ってんだ」というんで、わからなかったから、撮りに行かなかったんですよ。それなら、僕のところに来てね、言えばいいじゃないですか。それが1987年の静岡における朝鮮通信使の現住所です。
 そして、仕掛けて形になったのは2001年です。よく私は死なずにね、続けたんだろうと思います。2001年の東海道400周年に、僕に委員に出ろと言うんですよ。僕に委員に出ろということは、朝鮮通信使を仕掛けろということかなということで、委員会でこの種の資料を10何冊、委員会の開かれる入り口に並べておきました。多分知らない人も多いだろうと思って、並べておいて委員会で提案したんです。静岡県から出た委員は、1人も賛成がいませんでした。ノーもいません。これが静岡の現住所なのかな、イエスもノーもないの。他県から来ている人が賛成ですよ。それで、そのとき県から60万円の地域おこしのお金がおりました。それで、「静岡の文化の風を」というところを中心にして、対馬から行列の衣装だとかみんな借りてきて、その費用は200万円くらいかかるんですよ。私は、160万円ぐらい寄附を集めました。そして、そのトップには「静岡の文化の風を」の若い人を据えました。私はサポートに回りました。静岡の体質ですけど、私がトップに行っちゃうと、これは多分ね、うまくいかないんだと思うんですよ。成功すればいいということで、私がサポートすることで――それが静岡体質だと思っていたものですから――そうやって成功しました。そのときにカウンターパートナーが小嶋市長です。
 そして、その翌年――2002年にNHKがエンタープライズと一緒になって「ソウルから日光まで」というのを組んだのですが、東海道の静岡から手が挙がらないんです。NHKから電話がありました。原田令嗣さんがNHKにいたころです。彼とは、NHKにいたころからの友達なものですから。それで「先生、静岡から手が挙がらないんで、どうにかしてくれないかなあ」というので、それで動きまして、小嶋さんもオーケーを出して、それで動き始めたのです。そして、県と市が400万円ずつ出しました。これが2002年のことです。そのとき、私はエンタープライズと相当やり合いました。どういうことかというと、初め、私に動いてくれというときには、テレビが全国放送だけじゃなしに、韓国にも放送してくれるということだったんです。ところが、全国放送に静岡県は出ないという連絡がきたんです。私は、エンタープライズにクレームをつけた。そしたら、県も市もとめました。「放送局とけんかしちゃだめよ、先生、先生」というね。「私との約束だから」って、僕は抗議を出す文書を両方に見せました。僕は渡り合って、結局これが全国放送になりました。そして、韓国にも放送されました。静岡ってそういうところかということで、相当の波及効果があって、僕はコマーシャルにしたら1億円を超えるコマーシャル代が400万円ずつでできたと公言していたんです。
 そういうふうに動いて、2007年、400周年の記念をやるようになりました。駿府城では石川知事が歓迎する方、そして小嶋市長は清見寺で、全体の委員長は僕が務めることになったんですね、私じゃないとできないから。今だから申し上げますが、当時、県は北朝鮮サイドにいる朝鮮総連を実行委員の中に入れようとするのを歓迎しませんでした。上というよりは、窓口でそういう空気を察してだろうと思います。それで、会議は私の家の応接間でやりました、ざっくばらんに。三ヶ月スタートがおくれました。私は朝鮮通信使を仕掛けて、静岡のためにも、両国のためにもいいことだから仕掛けてきて、その仕掛けて成功させる一翼を担ってきたのが朝鮮総連にある民族学校の子供たちだと。国がもめ合っても、市民交流ができるというのが僕の哲学だと。それを「朝鮮総連は拉致問題でかかわっているから」と。私は「政府機関じゃない」と。「それにかかわっている機関であるかもしれないけど、政府じゃないのに外すというのは私の哲学に外れる。仕掛けたのは私だけど、そういう意味でスタートするなら、私はむしろこのプロジェクトに反旗を翻す」と公言しました。間もなく私の意見が通りまして、そしたら北風を防ぐのは金兩基だろうということで、僕に「委員長を」と。これは、天が見方をしてくれました。両日晴天でした。朝まで雨が降っていたんです。大成功。「天よ、家康よ、清見寺よ、ありがとう」という僕の最後のコメントが、すごく議員たちに響いたようでして、これが成功した。この宝を、このプロジェクトを、きょうのテーマのプロジェクトに生かしていくことをしてほしい。他県ではできない宝があるのだということを中心に展開して、問題を提起していきたいと思います。
 さて、私は今、静岡を宣伝すると同時に、家康を宣伝しています。「家康の平和外交」という言葉で。釜山に朝鮮通信使文化事業会が公的な機関としてあります。そこでの基調講演でもそれを言いました。日本でも基調講演で「家康の平和外交」という言葉を使っています。家康は平和主義者だと思いますか、皆さん。どうでしょう。どうですか。私がこれに出会ったのは、実は私の言葉ではありません。
 お手元にもこれが配られていますので、後でごらんください。大学時代、神保町でこの本をポッと抜きました。見ましたら、1910年11月に発行された日本歴史地理学会の月刊機関誌特別号の歴史地理朝鮮号というものです。そして朝鮮なのに、着ているのが、これはどうも素盞鳴尊(すさのおのみこと)なんていう神様の衣装じゃないですか。おかしなものがあるなあと。この衣装は、どう見たって。
 はい、次行ってください。この写真なんですよ。秋元子爵が持っていた行列の絵図です。そして、ここに通信使ということが書いてある。ここに、輿の上に乗った正使と書いてある。これどう見てもね、日本人の衣装じゃないんですね。そして、使節団が江戸時代に来た。意味が全くわからない、私には。習ったことがない。
 次に、行ってください。これは後にわかった。これが今言った通信使の行列です。ここから始まりまして、こうやって来るんですね。ここに武士、侍なんかわかりますか。日本の侍姿をしている人と朝鮮人。この行列図がずっとあるわけです。これが今、文化財に指定されている朝鮮通信使行列図です。たしか、知事がこの間、韓国に行って釜山の博物館でこれを見てきたと思います。こういうものです。
 はい、次どうぞ。絵がお手元にあるので、後で見てください。国書と書いてあるんですよ。それで朝鮮の衣装を着ている。それで輿、何だろう。これは絵解きしますと、王と将軍が国書を交わした帰りは返事を持ってきて、また国書が送られるんですね。国書を運んでくる輿なんですよ。国書が交わされたということを、私は初めて知りました。そして、これが正使が乗ってる輿です。これは副使が乗ってる輿です。こういうふうに江戸時代に絵図として書かれたものが残っているのは、一次資料ですね。
 そして、私は韓国の大学で後に教えるようになりました。それから七、八年後にソウルに招かれたときに、ソウルで偶然この朝鮮通信使の本の海賊版を手にしたんですよ。「どっかでこの表題見たことあるなあ」と言ってね、ふっとのぞいてみたんですよ。そしたらその海賊版ですよね。もとの本がこれであることも、僕は忘れていました。そして、それをめくりました。辻善之助さんという名前を御存じでしょうか。東京帝大の初代の歴史編さん室所長です。この方が当時、歴史学での博士。ということは、トップのクラスですね。「家康の平和外交、平和主義」って書いてあるんです。そして、この絵図を載せた人が藤田明さんという方。この人も「豊臣の武力外交」、「家康の平和外交」という言葉を使っているんですよ。僕は、家康が平和主義者だとは思っていません。幕府を立ち上げるために、今の「天地人」を見ても、どれほど人をやっつけていると思いますか。こんなことが、平気でよく語られるもんだなと。しかし、朝鮮通信使を読んでみると変わりました。そして、この原本を私の大学院のゼミ生が――日本人ですけど――神保町で買って、「先生」って見せて、私が今この原本を持っています。100年前のものを。
それで、そういうことを韓国の歴史学者に聞きました。「おまえ何を聞いてんだ」と。わからないんです。それは先ほど言いましたように、戦前の朝鮮史の中で、これは歴史の表舞台から消されているもんですから、学んでいる朝鮮人たちには伝わらなかったんですよ。一部独学で勉強した人たちが少し残しておりますけど、全体にはならないじゃないですか。これが朝鮮通信使の現状だったのです。
 そして、「家康の平和外交」ということを申し上げます。「家康の平和外交」はなぜか。家康は幕府の安泰のために、外国との戦争はやめなければいけないと。秀吉は朝鮮に侵攻したために、政権が滅んだといって間違いありません。それを「朝鮮に一兵卒も送らなかった」と家康は言って朝鮮通信使を迎えるんですが、彼はまずは関が原の戦いに勝った直後に、対馬の宗義智藩主に「朝鮮との国交回復をちょっと当たってみてくれ」と。そして感触を得れば、「私の命令で動いてくれ」というふうに。まだ関が原の合戦で勝った直後ですから、家康はすごい人ですよね。まだ大阪城も歴然として、秀頼もみんないるわけじゃないですか。それなのに、もう自分の政権を前踏みして発信したんです。その発信したことが結果的につながった。関が原の合戦が終わって1年ですね。1600年に発信して1607年、7年後には500人を超える通信使が玄界灘を渡って日本に来たんですよ。どれだけすごいことかというのは、わかりますね。
 これは、簡単にできたわけではありません。今の歴史の摩擦どころじゃありません。対馬藩は、朝鮮から米と雑穀を支給されて藩を維持していたんです。これは、辻善之助も藤田明もこの本の中で書いています。ところが、秀吉が朝鮮侵攻するときには朝鮮をよく知っているものですから。小西行長の娘婿ですよ、藩主が。第1陣に入っていって恩を仇で返したやからになるわけです、宗義智が。ところが対馬が生き延びるためには、朝鮮との国交回復がないと生き延びられないんですよ。それも家康は承知の上で、対馬にそれを与えるんです。朝鮮ではね、「裏切り者の彼の言うことがどうして本当だ」と。「日本はどうも将軍の上に何か王様が2人いるみたいだ」と。天皇と将軍でしょう。これもわからない。それで、これはうかつに信用してはいけないというやりとりの記録が、ユネスコの世界記録遺産に指定されている朝鮮王朝実録にそのまま載っています。それでも、「そこまで言うなら、一回でもいいから日本に使節を、様子見でもいいから行ってください。その間、私は牢屋に入れておいてくださって結構です。私の言うことがうそでしたら、処刑してください」と言って、そこまで言うならというんで、お坊さんの将軍大使と、日本に探賊使――賊を調べるという意味ですが、対馬まで来たら、対馬の僧侶の人たちが「ぜひ家康に会ってくれ」と言うので、その坊さんは不承不承で家康と会うんです。それで2人が通じ合いまして――これを細かく話したら1時間では到底足りませんので――帰って、「交渉に値する人だ」と。そのときに、捕虜を千数百人つけて帰りました。そして徳川は、一兵卒も送らなかった。「朝鮮とのよしみは古代からつながってきている。回復したい」というメッセージを伝えて第1回目になりました。
 そして、来たんですが、来る前段があります。「これが本当なら、日本から国交を回復したいという国書をよこしなさい」と。そして「戦争中に横領を犯した、盗掘した犯人をよこしなさい」。そして「拉致されていった捕虜を返しなさい」という3つの条件を出したんです。3つ目の条件はどうにかなると。最初の国書については、家康が出したものがにせものか本物かという議論が少しあるんですが、将軍の名前で国書が行きます。そして2つ目については、横領を犯した人を2人、対馬から犯人だと送ります。この犯人は、にせものです。にせもので、1人は年齢から見て戦争当時は子供なんです。2人ともね、こんな犯してもない罪で殺されることは嫌だというんで、これは最後、王の決断ですが、「汝らが恨むなら汝らをよこした主たちを恨め。汝らの国が汝らが犯人だとよこしたから、厳正に処罰する」と言って、さらし首にします。皆さんは政治家ですから、政治というのはそういうことを乗り越えてくるんですね。そして、使節団の名前は3回目までは「通信使」ではありません。「回答兼刷還」――刷還というのは印刷の「刷」に還元するの「還」という字です。刷還というのは、捕虜を連れ帰るという意味です。日本では使われない。「回答兼刷還使」として3回目まで来ました。家光の時代になって、通信使という呼び名に変わります。通信使の信という字は信号の「信」ではありません。信頼の「信」です。誠を通い合わせる、心を通い合わせる使節団ということで、1811年まで計12回来ます。最後は対馬で泊まります。そして、京都で1回泊まったことがあります。
 この交流が静岡に来まして、家康が通信使に会います。韓国側では通信使を知らなかったもんですから、通信使の火つけになった釜山に、釜山市が全費用を提供して朝鮮通信使文化事業会というのをつくりました。全額、市の負担です。釜山市に事務所まで特別に持っています。釜山市の博物館は、よそから借りた朝鮮通信使の展示に1つのフロアを全部使ってます。ところが、静岡にはもっと宝があるんですけれども、それを活用する場所がありません。意識がありません。釜山は心の通い合う宝だということで生かしながら、日本各地に呼びかけて、資料を送ったり、あるいは通信使行列をやるときのそういう衣装だとかを貸したりしています。静岡は宝があるけれども、この活用をできていません。釜山特別市は、静岡県と同じぐらいの人口です。釜山市とそういう交流をすることは可能です。
その1つがここにあります。これは静岡市と釜山市の朝鮮通信使文化事業会が共同で出した本です。タイトルは「清見寺所蔵朝鮮通信使遺物図録」と言います。これを僕は仲立ちしました。編集後記を読んでいただくとわかるんですが、解釈の違いで挫折することになったんです。事業会の委員長から電話が来ましてね、「学者のエゴというか、学者の主張でできなくなった。日本の解釈と韓国の解釈が合わない。韓国の学者は日本の解釈に従えないと言うんで、ここからおりると言う」と。それで、私は静岡市の職員と韓国へ行きました。それから県の文化審議会の会長をやっている岩崎さんたちと一緒に。日本側の訳者が彼なんです。韓国へ行って説き伏せました。私は「これを残したこの文化遺物の原文、詩だとか、いろんな筆跡をね、これは韓国のリズムで書いたものだから、日本人には翻訳できない部分がある。しかし、日本に来て書いたものだから、韓国の学者にはわからない部分がある。だから両者が一緒になってということだ」と。「これは、次へのたたき台としてこれを乗り越えるための資料としてつくりたいんだ」と。そしたら、韓国の学者が――僕は初対面です、その学者、金博士と言います――「そういう意図ならわかった」と。そこで進みまして、これが完成しました。乗り越えることができるという事実を、私は実践してきました。これを宝にどういうことをするかということ。
 富士山を見に来るだけで、静岡に来ますか。富士山は姿をあらわさない日の方が多いんです。ですから、富士山を見に来ようとしても、富士山に出会わずに帰る人たちの方がむしろ多いかもしれません。静岡に来たら、200年を超える平和交流をした事実と歴史に出会います。その仕掛けた人に出会えます。そして、この風土に出会います。修学というのは、学を修めることですよね。だから「修学旅行で歴史を学ぶ、生きた交流を学ぶ、そういうところへぜひ高等学校や中学の修学旅行で来てみませんか」と。これにまさる勧誘はないだろうと思います。それで、言葉だけですと信用してくれませんが、ここにこの一次資料があって、映像も静岡市がつくりました。僕が監修しましたけど。映像の韓国版もあります。それの字幕をつくりました。それも監修しました。それなどを活用しながら、韓国の学校に。静岡には日本を象徴するシンボルの富士がありますし、お茶もあるが、お茶とみかんでお客様を呼ぶことは、韓国にとってそれほどの魅力はありません。特別な関心がない限り。あとは温泉も。子供たちに温泉と言っても効きません。そういうもので歴史を学んで、そしてここで土地の学生たちと交流をして、そこで言葉を越えたスキンシップの交流ができるというような企画を立てたら、生きた心の教育じゃないですか。県立高校がいっぱいあります。まず県立高校から始めて、私立高校へと波及することができるじゃないですか。持っている宝を生かすという発想で活用できる素材が、僕は朝鮮通信使だというふうに思います。
 そして、これを見てください。これは、私が監修して県がつくったチラシです。朝鮮通信使の清見寺にあるものの一部が書かれています。これは後ほど読んでくださっていいと思います。
 それから、こちらの資料は、先ほど言いました「家康の平和外交云々」と書かれています。ごらんになればわかります。なお、この全文をお読みになりたいという方がいらっしゃれば、全文のコピーもあえてします。県立図書館には、多分この書はないんじゃないかと思いますけれど。そういう一次資料です。来年の11月で100年前のものということになります。今は99年前の出来事ということです。
 それから、静岡の宝の1つ――交流のポイントが芹沢_介美術館です。実は、天野さんが市長でいらっしゃるときに、芹沢_介美術館の作品コレクションを持っていってソウル展をやろうという呼びかけが来て、それを動いてほしいというのが私のところへ来て、それで天野市長にもそのときは「協力をしてほしい」と言って、天野市長もオーケーしたんです。ところが、途中でいなくなっちゃったんです。そのために、それが不発に終わっちゃったんですけど。そのまま市長でいらしたら、私の夢をかなえてくれたんですが。そのとき何と情けないことか、芹沢_介美術館の学芸員――あそこの運営委員会が反対したんです。その筆頭が芹沢_介さんの息子で、芹沢_介のコレクションを韓国へ持って行ったら戻してくれないんじゃないかという憂いがあって、なかなかオーケーしないんです。「韓国も、国と国が国交を結んでいる国だよ、国連に参加している国だよ、それが日本から行ったものを押さえるかよ」と言ったんだけれども、その当時の市長さんの言葉も通じないぐらい。でも、寄贈した遺族の意向だし。
芹沢_介のあの絵文字は、朝鮮王朝時代の絵文字です。そして、そういうことなどから、彼が工芸品にあこがれたというところなどもあります。その絵文字が、国際的に評価をされています。その絵文字は朝鮮の民画の影響で来たことも、これは文書にもしてあります。私は芹沢_介翁とは個人的にも関係がありまして、芹沢_介の世界を「脱領域の美の作家である」と僕が表現したのを、本人自身も大変喜んで、私は文芸春秋の文章でも芹沢_介さんに望まれて書いた文章にもそう書いています。そういうふうに交流がここにも。かつてのものが、これだけの芸術品になったよと。そういう交流もあったよというのも、これは生かすことが可能であります。
 それから、まだあります。皆さん、韓国人はワサビ好きです。今、県大の学長やっている木苗さんが、ワサビシンポジウムを韓国とやったんです。2002年だと思うんですが。私はその基調講演をしました。ワサビはね、韓国語に翻訳した言葉があるんですけど、「ワサビ」の方が通るんです。ワサビは日本産なんです。ワサビをいろんな漢字で当てるんですが、当てた字であって、ワサビは日本のもので、このワサビをあれだけの産業に発展させたのは家康なんです。家康が有東木のものを門外不出にして育てた場所である有東木の里を、私が里の宝にしろと仕掛けた張本人なんです。有東木館ができるきっかけをつくったんです。外国人の私がそういうボールを投げたら、それが形になった。そういう意味での交流が、このワサビの里にある。ワサビのあの辛味を非常に好みます。トウガラシが主に日本を経由して韓国で定着したんですよ、トウガラシの文化。このワサビの文化が、そういう交流になっていくだろう。「本当のワサビの味を味わってみてください。にせもののワサビだけがはびこっちゃっているもんですから、本物のワサビ、本物の心と触れ合いましょう、本物のワサビを味わってみてください」、これは通じるんじゃないかと。こういうような動きが、僕はやっていけるのだというふうに思います。県大の木苗さんのプロジェクトで、文部科学省の資金を得てやりました。
 そして今、静岡文化芸術大学と湖西(ホソ)大学は交流関係を結んでおります。その最初の相談が県から私のところへ来まして、それでつなぎをつけると、あとは県が独自に進めてきました。それから、韓国の密陽――釜山から1時間ぐらいの距離にあるところです――そこにバイオの専門の大学がありまして、そこが「県大と何かを結びたい」と言うので、「県大はバイオがありませんので、バイオならば静大だよ」と言って、そこも静岡大学と交流をしています。ただ、これらの交流がわずか少数の学者同士の交流にとまっちゃうんですね。これを市民を巻き込んだ形の交流にすること。これは、発想の転換をすればできると思う。それを木苗さんは、ワサビのときにやりました。有東木の人たちも大勢駆けつけました。そしてグランシップの中ホールを満員にするくらいになりましたが、こういうのがただ1回で終わっちゃうんですね。それはどうしてそうなるかと言うと、その点に問題があります。
 そして、私は、朝鮮通信使を生かすということで、先ほど申し上げました東海道400周年のときに、こういう話をしました。東海道は国際ロード、歴史ロード、文化ロードであった。そう発展させたきっかけは、朝鮮通信使が東海道を通ったことが非常に大きな影響を与えている。東海道と朝鮮通信使というのは行列によって連動しています。 お手元に写真もコピーしてありますが、朝鮮通信使が通らなかったエリアにまで朝鮮通信使の人形が各地にあります。これは、秋田の弘前の方ですね。全く通信使が通ってないところのエリアに、も、うわさがうわさを呼びしまして、各地に通信使の文化が残っています。静岡はこれだけの素材があるのに、何が残っていますか。ないんですよ。こういう文化のつくり方が、余り褒める状態にはないということが一つです。こういう朝鮮通信使の文化を発見すれば、再現することができる素材は幾らでもあります。
 そして、その次です。これが国書です。国書の本物の写真が写っています。これは京都大学にも残っておりまして、ソウルにも残ってます。このときの国書が、こうやって残っている。この国書によって、お互いに産物を交換し合う、日本からも行くし、韓国からも。だから交易に非常に大きな影響を与えたと。静岡の産業を交易に活用したという歴史に学ぶということで、現代は何ができるのかということを考えるときの歴史の原点がここにこうやってありますので、それを現代に生かすという発想の転換はできるだろうと思います。
 そして、これは、日本橋を通った朝鮮通信使の絵です。富士山が見えます。これほど盛んだったということで、この行列を見るために弁当を背負って野宿をしながら通信使の後を追いかけた、通信使にサインをもらいたくて夜中も駆けつけた、という記録があって、その通信使の残した遺物が清見寺に相当数あります。絵の屏風まであります。そういうことが、私が仕掛けるまでは、実は地元の興津でもわかりませんでした。今、興津の住民たちがおらの里の自慢だということで、県もかなりサポートしています。そういうふうな動きが出てきているので、これをぜひライン――橋げたの上に橋を渡していただきたいということ。産業にも結びつく。そして、この通信使が歩いているところに、楽隊演奏がずっとつきます。芸術、文化ロードと言いますが、芸術の交流ができます。そして、朝鮮通信使が残した通信使の行列図、これなどもかなりの数があって、美術館に僕は仕掛けたんですが、美術館では何か委託経営みたいなことになっているんでしょうか、3年間取れなくて2002年、2007年のときも実現できませんでした。ともかく、静岡には朝鮮通信使をキーワードにしながら周辺に広げていく素材がいっぱいあるということです。
 そして、韓国人はみかんが大好きです。お茶は今、智異(チリ)山のふもとで栽培しています。でも日本のように茶を手でもむというような、あそこまで本当に茶の香りがする本物の茶はないので、これを何らかの形で生かしていければというふうに思いますが、韓国は茶道を通しては伝わりにくい。家元制度は日本にしかなくて、韓国では一人一人が全部家元になっちゃうんです。この文化の違いを念頭に入れながら、茶を通しての交流。流派を通しての交流はほとんどできません。ですから、茶を通しての市民交流は何ができるか。韓国の茶道のあり方を考えてみても、これもいろいろなところでやってみんな自分のものが最高だと思っていますから。この点なども留意しながら茶道の交流。
 音楽の交流、これも江戸時代に朝鮮通信使がやった。朝鮮通信使の音楽再現とかいうことなども、広めていくことは可能だというふうに思います。
 結びの言葉とします。もう1時間になっちゃったですね、済みません。私は、先ほども言いましたようにモデルを探すのではなく、モデルをつくる発想の転換をするべきだと。そのために、勇気と行動を起こしていただきたいというのを結びの言葉とさせていただきます。済みません。タイムウォッチを置いておいたんですが、56分かかりました。(拍手)

○天野(進)委員長
 金兩基先生の場合には、必ず時間オーバーするというのは前提でございます。本当に熱弁を振るっていただきまして、ありがとうございました。
 それでは、これから質問に入るわけでありますけれども、先ほども申し上げましたように、どうぞ一問一答でお尋ねをいただきたいと思います。

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