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委員会会議録

委員会補足文書

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平成25年11月子どもの人権擁護特別委員会
参考人の意見陳述 浜松学院大学現代コミュニケーション学部 教授 大野木龍太郎氏 【 意見陳述 】 発言日: 11/26/2013 会派名:


○大野木龍太郎氏
 皆さん、おはようございます。
 今、私は浜松学院大学で教員をしております。早速ですけれど、お時間も限られているので、私のほうのレジュメをもとに、それから資料を添付させていただきましたので、それも触れながらいきたいなと思っています。
 子供の人権ということで、体罰の問題は本当に皆さんにとっても非常に関心のある、また何とかしなければいけない問題だと思います。文部科学省は大阪の桜宮高校のバスケット部の主将の自殺問題を受けて、緊急に全国の体罰調査を実施して、1次調査、2次調査ということで、資料にはその統計の数字が載っております。静岡県がどれぐらいあったのかということ、それから学校種別、それから発生件数等々が載っておりますので、それをかいつまんでレジュメに載せたのですけれども、とにかく昨年1年間で6,721名という教員が体罰を行っていると。そして、被害を受けた児童生徒は1万4208人に上ります。
 小学校と中学校ではその場面が違っておりまして、小学校では授業中が6割、中高では部活動が4割ということで、そして体罰の態様については蹴るとか殴るとかいろいろあるのですけれども、どういう状況かというのは、この添付資料でいうと体罰の態様というところをごらんいただければと思いますが、素手で殴るというものが非常に多いということがわかります。
 静岡県については、この調査についての報告を県の教育委員会で取り上げておりますけれども、残念ながら非公表になっておりまして、一般の人たちは新聞等でしかその状態を知ることができないというのが現実であります。6月24日付の新聞発表で静岡県では県内公立学校で146件の体罰がありました。そして、全体の46%に当たる67件が部活動で起きております。練習態度とかマナーの悪さを正す生徒指導に伴う体罰が目立っているわけです。
 私がいる浜松市においては、この調査は先生だけではなくて、児童生徒、保護者にもアンケートをとっているんですね。ただ、記名式なので、多少、ちょっとそこがどうかなということがあるのですけれども、181件の体罰とおぼしき疑いのある報告があったのですけれども、市の教育委員会ではそれを精査して、文部科学省に上げたのは4件という報告でした。ということはどういうことかというと、体罰であるのか指導であるのかというその境界線が曖昧な部分を含んでおり、もしかして厳しさのあらわれとしての指導として、そこで177件に当たったものを全てもう少し厳しく見れば、かなりの数にアップするだろうということは予想されます。
 それから、県の監査委員が体罰の実態を高校名を公表して報告しました。その意図は、監査委員は体罰を根絶するには、保護者や地域の人たちが協力して対応することが必要で、改善状況を注視し、根絶につなげるために公表したと。前に集団で万引きがあった問題で、磐田の学校が名指しされたときに、数を正直に出すことで、一生懸命になくそうとしている取り組みに水を差しているのではないかということもあったのですけれど、後からも触れますけれど、体罰の問題はやはり非常にこれまではスポーツ界ではタブー視されていた部分があり、そういった意味ではこうやって日の目を見ていくということは、よりよくなっていくためのステップの1つではないかなと思っております。
 それから、私立高校でも浜松日体高校のバレー部の顧問が、練習試合のときに平手打ちで部員を殴っているのを生徒が動画で撮って、それをユーチューブに流すということで公表されたことで動かぬ証拠を突きつけられ、結果的にはその顧問教師は懲戒解雇という処分が下ったわけです。ということは、そういうことを表に出さないものというのは山ほどあるわけで、皆さんも多分察するように、ことしに入っても、それからこれまでも、これだけ体罰問題が世間を騒がせていても、依然として体罰はなくなっていないということが実態ではないかなと思います。
 このことから、教育界が本当に体罰をなくそうとしているのかというのを疑わせると受け取られても仕方がないと。後にも触れますけれども、ことしに入って体罰問題について各都道府県レベルで根絶のための検討委員会を設け、ガイドラインを作成したり、ハンドブックや研修資料なども作成しているところがどんどん出てきています。
 皆さんにはその中の1つ、お隣の神奈川県のガイドラインと校内研修ツールをお配りさせていただきましたけれども、静岡県はどうでしょうか。静岡県は実はその動きが今のところ見受けられずに、教育行政が――川勝知事と教育委員会のバトルではないですけれども、同じ方向を向いて今、進んでいるようですけれども――体罰問題よりもむしろ今、学力低下問題に主たるエネルギーを注いでいる。もちろん学力問題は大事な問題です。しかし、学力さえ向上すれば静岡の教育は問題ないのかと。そうすると、この子どもの人権擁護特別委員会も必要なくなるわけで、人権という視点から子供たちが本当に大切にされているかということを問うことは、決して忘れてはいけないなと思っています。
 体罰問題は、きょうは少し焦点を絞って部活動との関連で話をしていきたいなと思っています。静岡県のお隣の長野県では、このことについて3年前から部活動検討委員会を発足させて、つい先日、新聞にも載りましたけれども、朝練の原則廃止ということを提言しています。これは決定ではなくて、これを広く世論に訴えるということで、現場の先生たちはそのことに賛否両論があるということ、それから生徒たちも同様というか、自分たちがそのことをどう受けとめたらいいかということで、非常に大きな波紋を呼んでいるわけです。神奈川県におきましても実は体罰の防止ガイドラインだけではなくて、既に部活動をどう民主化していくか、どう生徒たちが主体的、自主的にやっていくかということで、これまで2度もこういうガイドラインとか答申を出しているんですね。神奈川県の場合には、問題が起きたときだけ取り組むのではなくて、地道にずっと継続的に取り組んでいらっしゃる県で、隣なのにもっともっと私たちはそこのアンテナを高くしなければいけないのではないかなというふうに思っています。
 学力問題もそうですが、静岡方式といえばそうなんですけれど、常にトップが招集されて、そこで活を入れられ、責任を強調されるということなんですけれど、実際に現場の先生たちに会ってみると、校長先生がそのことをどういうふうに現場に持ち帰ってきて、どういう動きをしたかというと、なかなかそのことについてじっくりと話し合うとか、体罰問題、学力問題に沿って研修をじっくりするような場づくりを進めるというような方向よりも、どちらかというと何かをしているというか、何か対策を打っているということが大事だというようになって、体罰のことでいうと、なぜ体罰がなくならないのかという原因がどこにあるのかを人権の視点から見直すということを厳格に行わず、対策ばかりに目がいっているように思えるわけです。
 こうした体罰が生まれる原因について探ってみたいと思っています。それは2つありまして、1つは体罰が生まれる原因と、体罰がなくならない原因のこの両方を問題にしなければいけないと思っています。体罰を行うのは教員ですから、教員自身の問題として捉えなくてはならないのは当然です。しかし、先生一人がまさに個人的欠損というか、先生にふさわしくないとか、もともと向いてない人がそういうことをするのだとか、そういうような単純なものではなくて、生徒との関係、学校という組織や文化、社会風土にも視野を広げて体罰の原因を考えてみようかなと思います。教員の意識さえ変われば体罰がなくなるほど単純なものではないということだと思います。
 ここでいう体罰は、次のように言うつもりです。体罰というのは学校教育法第11条で禁止されておりますが、だから違法なのではなく、教育条理上、反教育的だから法律で禁止されているわけで、そこをまずしっかりと押さえておきたいと思います。
 そして、体罰というのは指導の名を借りた人権侵害、暴力であると。体罰は厳しい指導でもなく、行き過ぎた指導でもない。体罰は言語や態度、情熱や根気で指導できないための結果であり、衝動的に感情に飲まれた短絡的な行動であり、決して指導ではない。殴る、蹴るというのはもちろんのことですけれど、社会通念や医療、科学に基づいた健康管理、安全確保の点からも認めがたい。または、限度を超えたような肉体的、精神的負担を課すことも体罰の範疇に入ると思います。そして、言葉の暴力、パワーハラスメントとかセクシャルハラスメント、身体や容姿に関することや、人格否定的発言も言葉の暴力として体罰につながる人権侵害であります。これはパワハラの問題、セクハラの問題が既にこういった部分をあぶり出していると思います。
 先ほど言ったように、この原因について、教師自身、それから学校の文化、そして生徒の問題、体罰を容認する社会風土と、この4つのところから少し見てみようかなと思っています。
特に教師自身の問題なのですけれども、いろんな本をひも解いて、私が大学時代に買った古い本なんですけれど、坂本秀夫さんという体罰の研究をされている先生がいらっしゃるのですが、体罰を必要悪という言い方をして、「よりまし論」というのですけれど、要するに起きている現状に対して何もしないで手をこまねいているよりは、体罰はよりましなのではないかという意識。そして、なぜそういうことが出るかというと、教育熱心であるということの証。すなわち教育熱心で有能な教師の証明を求め、体罰を行っていない教員に対して指導不熱心という意識を持っている。要するに、教員の中にそういう意識のずれが生まれているということですね。そこにあるのは、実は生徒のためという生徒本位主義。そして、生徒に対する非寛容的態度。生徒に妥協したり、甘やかすのではなくて、厳しさこそ教師の専門性であるという、ある面では強権的善意性という言い方をしましたけれど、こういうことが現象的には当てはまるわけです。
 しかし、よく見ると、教育経験豊かな人ほど体罰を行う機会が少なくなるわけですね。甲子園に行くような監督でも、よくインタビューで、私は若いころはよくたたいていましたが、しかし、だんだん年月を経るに従ってそういう指導ではだめだということに気がつき、今では本当に手を挙げることは1回もありませんと。桑田真澄さんが、体罰というのは学校教育法で禁止されているからずっとずっと、だめだ、だめだ、だめだというけれど、スポーツ界ではむしろ体罰は勝つためには必要だと、厳しく子供たちを育てるためには体罰があってもそれは必要なのだという時代がずっと続いていたと。そういう時代の中で体罰禁止を貫くというのは大変難しかったし、そういう意味では時代の流れの中で、体罰の問題も受けとめ方が変わってきているのではないかというふうにおっしゃっているわけです。だから、こういうような先生が子供たちのために捉えている子供観というものが永遠不変なものではなくて、当然、変わっていく可能性があるということで捉えなければいけないのだろうなと思っています。
 そして、もう1つは経験の浅い先生なのですけれど、僕も大学で教員になる子たちを教えていますが、大学で学んだだけではとてもすぐに教壇に立って子供たちとうまく授業をしたり、子供たちのさまざまな行動をいさめたりするのはやっぱりなかなか難しいと思います。そういう意味ではストレスがたまります。そういう部分の鬱積した状態というものをどういうふうに受けとめてあげるかということなど、あらゆるところを考えないと、やっぱりそこの部分については、体罰はよりましなものであって、何もしていない先生は指導不熱心であるというようなステレオタイプな見方を変えていけないのではないかなというふうに思っています。
 それから、本当に子供のことを信頼しているからゆえに、おれは痛みを分かち合っておまえを殴るのだというような、「愛のむち論」という言い方。これは生徒たちが本当にそれを求めているかどうかもわからず、あくまでも教師の主観的で一方的ですよね。ましてや、信頼関係というものは先生が思っている信頼関係で、生徒からいえば、先生は僕のことをそんなに信頼しているなら、もっとしっかりと言葉で言ってくれればわかるだろうという生徒だっているわけで、そこら辺について、今までは愛のむちという言い方で、愛しているがゆえにこの痛みをというようなことがまかり通ってきた部分です。
 それから、怒りという言葉。皆さんも多分いろんなところで怒りの感情って持ち上がるときがあると思うんですよ。例えば学校でも言うことを聞かないとか、一生懸命に指導していても思うように動かないとか、そういったときに自分の怒りをどうコントロールするかというところを持ち合わせていない。アンガーマネジメントというのは、実は幾つかの件でこういう怒りをどう静めるか、そういう状況になったときに、一旦は自分が冷静になるためのトレーニングが必要ではないかということでここには書かせていただきましたが、なかなかこういうような能力を教員養成課程、それから先生になったときから地道に学ぶ機会もないので、改めて私たちが持っている怒りの感情というものをどういうふうにコントロールするかというのは、別に教員だけではなくて、全ての人に問われている問題だと思っています。
 それから、体罰における成功体験ということで、実は体罰をしても結果がついてくるとそれに頼る。特に即効性ということですね。これは勝利至上主義と重なってはいるのですけれども、体罰をしたことが結果的に自分の成果につながってしまうという部分が、繰り返しにつながっていくのではないかということ。それから、人権感覚の乏しさ。すなわち、いろんな場面で子供たちが1つの人格を持った人間として尊重することができていない。要するに、生徒を信頼しないで成長を信じていない。要するに、厳しくしなければどんどんだめになっていく、さぼろうとするのではないかというような、そういう否定的な見方を先生方がしがちになるという部分。これは全ての先生がそうではないのですけれども、問題を持った子たちがクラスの中で1人、2人ではなくて、たくさんいるようなクラスを持ったときに、やはりそういうような感情に陥ることは当然、予想されるわけです。
 それから、この問題を自分一人で解決しようとしている。他の人の援助を求めるのは、何か自分が能力がないのだというふうに疑われると思って、できるだけ1人で抱え込んでしまうということ。それから、抱え込んだけれども、どうしたらいいかという具体的な指導法がわからないとか、体罰によらない指導というのは一体どうしたらいいかというのが見えてないということ。そして、その教師自身が自分の経験の中で、体罰とか暴力を受けた経験があるということが、もしそのことで自分が結果を出してきたときに、体罰というものに対する受容というか、体罰の連鎖が生まれるということが、この問題を深刻にしているのかなと思っています。
 それから、資料にあるようにさっきの教師自身の問題の@とAは、学校文化や教師の意識の@とAに対応しているのですけれども、実は私は体育の教員なのですが、生活指導とか部活指導を熱心に行う先生は体育の先生が多いんですね。そういう先生がいることで、実は一般のほかの教員たちが、言うこと聞かない子はそういう先生に任せておけばいいという感じで、問題だなと思いながらも、自分ではそこまでできないなということで、その教員に対する依存体質が生まれるわけです。そうするとどうなるかというと、その先生の前ではおとなしくしていても、女性の先生とか、本当に穏やかな先生に対しては全然言うことを聞かないとか、学校の中でその先生が1人いることによって、そうじゃない先生たちが逆にすごい大きなダメージを受けるということがあるわけで、だから体罰をする先生が1人いるということはそんな大きな問題じゃないのではないかというけれど、生徒たちにとってはその1人の存在が学校全体の教員バランスのことを考えると、すごく大きな問題ではないかなと思っています。
 あとは、教員の親がわり意識とか独善性、それから日ごろ一生懸命やっているということ。それから、自分では築いたと思っている信頼関係と体罰が相殺されるという感覚。そして閉鎖性。それから、部活動というのは残念ながら今のところ学校の教育課程外の活動なんですね。だから、土曜日、日曜日に部活指導をしても、手当のことだけで話すつもりはありませんが、非常に大きな負担を強いている。しかし、それは生徒たちが求めている部分で、先生たちもそれに応えようという部分があります。しかし、その部分はほとんどが先生たちの奉仕的な状態で今、行われていると。だから、実は日本の部活動というのは先生たちの熱意に支えられてきたんです。そして、それができないところは外部指導者を今、招聘するような形になっています。そのような先生たちの私的な情熱を傾ける場所として非常に閉鎖的になり、そして、ほかの人がなかなかそのことに対して口を挟めないような関係をつくりやすい位置づけになってしまっているというところがあると思います。
 それから、大阪の桜宮高校の場合、あのキャプテンが大学への進学を目指していて、キャプテンというのにしがみついていたのではないかということもいろんな取材で言われておりますけれども、結構、私立は特にそういうのが強いのですけれど、スポーツ経験が上級学校へ進むときの進路保障になっているんですね。したがって、そこは逆に言うと、先生たちから見れば、かなりいろんなことをしてもそこに縛れるという部分があって、内申書に部活動の経験が加味されるようになったことが、非常に子供たちから見ると自由に部活をやるというよりは、部活をやっていないととか、ここでやめちゃったら先が閉ざされるみたいな、そういうものとして使われているというところがあると思います。
 それから、生徒自身の問題としては、何でそういうことをはねのけないのかとか、毅然と対応すればいいのではないかと思うのですが、例えば生徒たちは自分ができないこととか、失敗したこととか、うまくいかないこととか、場合によっては部活でいうと負けたこととか、そういったことに対して自分がだめなんだなとか自分に責任を感じるわけですね。でも、それと厳しいトレーニングとか体罰というのが混同してしまうということなんですね。先生からそうやって殴られるのは自分がやっぱりだめなのだから仕方がないなと。でも、生徒たちから見れば、どうしたらとか、なぜとか、これからどうしたらいいのかということを、本当は顧問の先生とコミュニケーションをしていくことで初めてスポーツの本質に迫っていくのだけれど、その部分がやはり子供たちから見ると、部活動はただ先生から言われたことをやらされている間はそういう発想には立てません。では、自分たちが足らないのはどこなんだろう、バスケットだったらどうやったら自分たちのチームは強くなるのだろう、そんなことを考えるような部活動のスタイルというのをこれからはつくっていかない限り、いつでも顧問教員への絶対服従。あの先生についていけば勝てるかもしれない。だから、おれたちはどんな厳しさも受け入れるのだというような、勝利というのは確実なものではないので、そういう部分で不透明なものに対して生徒たちの中にも先生にやっぱりついていけば自分はもしかしたら勝てるかもしれないという、そういう部分の意識というものを持ちがちになってしまうということがあるのではないかなと思います。
 実は、体罰を受けたことでその子たちが将来、問題解決を有形力で図るようになるという、このことが一番私たちにとっては重要な問題です。そのときの問題だけではなくて、今ある幼児虐待の問題もそうですよね。自分の経験の中で、父親、母親から虐待を受けていた子は、親になったときにまたそれを繰り返すという連鎖をとめていくためにも、生徒自身がやはり体罰に対する認識をしっかりと持たなければいけないというところがほとんど抜け落ちているなということです。
 それから、体罰を容認する社会風土ということで、親が実は体罰を容認する。例えば大阪の問題でも、あの先生に対する嘆願書が出たりとか、あんなに一生懸命に頑張って成績も残してくれているのにそれはというような言い方で、たった1人でもそんな理不尽な扱いを受けて、ましてや命を落とすようなことまで起きているのに、結果が出ているのに何でこの先生をというような、言ってみればまだまだ体罰を容認する風土というのはすごく強いわけですね。
 あとちょっと時間もあるので、皆さんにお話ししておきたいところは、実は体罰というのが懲戒処分かというところです。懲戒というと注意、訓告とか、それから学校でいうと停学とか、高校ですと退学とかそういう処分があるんですけれども、そういう懲戒というのが学校教育目標達成のために生徒が校則に違反したりとか、反社会的行為を行ったりとか、教員に暴力をふるったりしたときに、その生徒に反省させて立ち直りを図り、自分で自分をいさめていくようなことを育成するための手段として行われるものです。だから、懲戒を行うかどうかというのは、他の指導によるものかをそれぞれの生徒の状況に応じて教育的な観点から総合的に判断すると。ただし、有形力を行使した体罰はそこでは用いてはいけないのだと言っているわけです。
 だけど、どうでしょうか、皆さん。怒りの感情の中で、例えば教員の心証を害する場合、生徒が真面目に取り組まない、言うことを聞かない、反抗的な態度をとる、教員の求めることができていない、思うような結果が出ないというときに、それは懲戒処分の対象になるのでしょうか。そこがすごく大きな問題で、例えば先生たちがこういうことに直面したときに、怒りの感情が生まれるわけですね。そのときにどう対応するか。これは一言で言うと、教育とは何かに尽きるわけです。例えば罰でおどすとか、痛みでわからせる、これはもちろん教育とは言えません。そもそも教員の心証を害することが懲戒の対象になるかどうかがそこがはっきりしてない。なぜ真面目に取り組まないのだろう、なぜ生徒は自分の思うように結果が出ないのだろう。当然、ここは先生が自分の問題として考えなければいけないのだけれど、怒りの感情がストレートに出てしまうことがそういう体罰につながっていくことがあるわけです。だから、教師の専門性が問われるわけで、人権の視点から専門性を考えると、子供たちを深く理解して教育活動を行う日常の実践の積み重ねが体罰をなくしていくことにつながるわけで、教員は子供たちの「なぜ」、「どうしたらいいの」、「どのようにしたら」ということに対して、理論立てて言葉を返して指導する専門家なんですね。教師の専門性というのはそこにあるわけで、この専門性をどれだけ磨くことができるかが問われている。だから、体罰というのは、そういう意味では教員がみずから自分の専門性を放棄する行為であって、体罰を全面否定するところから教育が始まると考えてもいいわけで、そうするとなぜこういうところに立てないかということなんですね。私たちが子供たちを育てていくときに、やっぱり子供観がここでは問われているんだなと思いました。
 これは最後のところで触れますけれども、例えばコーチングとティーチングという言い方をレジュメに書きましたけれど、ほとんどが今まではティーチングでした。要するに、子供は何もできない、わからない。だから、先生が教えてあげなければいけない。しかし、どうでしょうか。さまざまなスポーツの場面で、先生が教えてくれたとおりにできる場面よりも自分で判断しなければいけない場面のほうが多いわけで、そうすると結果的には指導の目的というのは、本人が自分で考えて、自分でそこを自己解決していけるような力を育てるためにスポーツ、部活は格好な1つの材料なわけですよね。そう考えてみると、子供たちが失敗したときとか、成果が出なかったときに、そこが実は本当は指導のチャンスなんですね。そのときに初めて先生が子供たちに考えさせたり、一緒にこういうやり方があるよということをコーチングする。でも、日本の場合にはむしろ逆で、おまえ、何でそんなことができないんだという形で、最悪の場合には体罰でもってそこの部分に食い込んでしまうという、まさに人権侵害であるということを双方が学ぶ必要があるだろうなと思っています。
 そんなことで、求められた中に行政に対する提言ということで考えていることをと言われたので、こういう体罰の問題に対して実態等、原因等を見たときに、行政は何をしたらいいのだろうということなのですが、3月13日に文部科学省が「体罰の禁止及び児童生徒理解に基づく指導の徹底について」という通知を出しています。これはもちろん、例の大阪の問題、そして女子柔道の15名の告発の問題から、文部科学省はこの問題をやっぱりきちんと受けとめて各都道府県等に通達を出しているわけですね。そのときに、すぐに敏感に察知して、北海道から山形、仙台、茨城、山梨、東京、神奈川、京都、大阪、広島、長崎、宮崎ともう既にこれだけの自治体が1年もたたないうちに、すぐにこのことに対して、これはもう本当に大事な問題なのだということで、名前は防止対策委員会とか、根絶委員会とかいろいろありますけれども、行政が率先してまずはガイドラインを示そうということなんですね。
 ガイドラインをつくる目的というのは、つくればオーケーではありません。静岡県はスポーツ県だと、スポーツを旗印にしていますよね。でも、スポーツをやる中で体罰は絶対にない県にしていくのだというような、そういうスタンスに静岡県は立ち切れていないのではないかと私は思っています。でも、これはすぐやれることなんですね。体罰根絶検討委員会を、それからあわせて部活動のあり方検討委員会を発足させて、本県の体罰の実態を踏まえて原因を明らかにして有効な対策を提示していく。本来の学校教育、部活のあり方を提言する。そこがスタートではないだろうかと。これはやっぱり校長任せとか、学校任せにするのではなくて。公立の学校の持つ意味は平等性ですよね。どこの地域でも、どの学校でも体罰というのは絶対にノーなんだということを徹底していくために、ぜひこの検討委員会を設置されることを私はここで皆さんに訴えたいなと思っています。
 学校関係者、法律関係者、保護者、競技団体、それから教職員組合、社会教育関係者等々、やはりさまざまな角度、立場からそういう人たちに集まってもらって練り上げていく。そして、通達を出せば終わりではなくて、神奈川県の場合には資料として校内研修ツールということで、いじめの問題もそうなのですけれど、先生たち自身がさまざまな想定するような場面の中で、問題性をどう認識してどういう解決をとったらいいかというのを、先生自身がみずから学び合うということが大事だなと。今、そういうところまで行政がフォローしているわけですね。そんなことは先生たちでやればいいんだというふうに思うかもしれませんが、なかなか先生たちは今、多忙化で、まさに学力向上路線がおりてくる中で、子供たちのそういう人権、そして人権を最も大事にしなければいけない特別活動、そういうところで体罰が起きているということに対して、私たちがもっとここをしっかりと受けとめて、県レベルでまずはそういう検討委員会を設け、そしてガイドラインを設けていくということが大事ではないかなと思っています。
 それから、2つ目の提言ですけれども、6ページですが、先ほど言ったように、体罰問題は体罰をした教員を処分すれば解決するのではなくて、なぜ体罰を周囲の教員がストップできないのか、その原因に迫る必要があると思うんですね。すなわち、先生一人の問題ではなくて、むしろなぜそれがそういう個人の問題にされてしまうかというと、さっき言ったように、部活動が教育課程の外に置かれている非常に微妙な位置なんですね。だけど、学校教育の中では大事な活動なのだと言っているわけですよ。大事な活動にしては余りにも先生たちがそこを行う条件が悪過ぎる。そこで、例えば土曜日、日曜日、長期休業中も部活動指導に汗を流す顧問教員に対して、そこまで熱心に部活動指導に入れない先生は、何か事があったときに言いたいことが言いにくい関係ができているのではないでしょうか。ましてや、その人が競技成績を残していたとしたら、一生懸命やっているのにやり過ぎだとか、人権侵害などという注意はしにくいのではないでしょうか。だとしたら、まさに学校教育の一環としての部活動なのに、実は先生たち一人一人の私的な情熱の燃焼の場になっていることが、体罰問題を学校全体の問題にできない背景にあるのではないかなと思います。だから、そういう意味で部活動をもう一度、ちゃんと教育的な意義があるものとして位置づけて、どの先生でもちゃんと部活動指導ができるようにしていくことが大事ではないかなと思っています。
 でも今日の部活動は、もう一面あるわけで、それはどういうことかというと、ずっと日本の部活動は日本の競技スポーツを下支えしてきました。かつては部活から企業だったんですね。今は企業が不況でほとんどそういう企業が自分たちで抱えるような形ができなくなってきているので、Jリーグもそうですけれども、地域でプロをつくり出そうという動きが出てきていますけれど、でも圧倒的多数はまだまだアマチュアという学校から企業へという流れの中でスポーツが行われているわけで、そういう意味では日本の競技スポーツの水準を押し上げるために、それぞれの年齢段階で日本一を競う大会が設けられています。そして、何よりもそこで勝つことに強く動機づけられたスポーツ活動が行われている。ということはどういうことかというと、中学とか高校という3年間という限られた期間内で結果を出すために、顧問の先生は自分の描いている勝利の方程式に生徒をはめ込んで、自分の言うことを聞く従順な生徒を必要とせざるを得なくなる。でも、スポーツの楽しさというのは、さっきから言っているように、みずから目標を立て、創意工夫をしながら、自己決定を繰り返しながら、結果をみずから顧みながら次なる課題を見出し、それに向かって切磋琢磨していくという自主的、自律的な活動であることがスポーツを本当に楽しいものとして考えることにつながると思うのです。このボタンのかけ違いが体罰を生む根底にあるのではないでしょうか。
 そこそこ強豪といわれるチームには体罰がつきものなのは、やっぱり結果に縛られているということが大きく影響していると思います。でも、競技力を向上していくということと、人間形成というのは決して矛盾するものではないと思います。でも、そこの人間形成が理不尽な体罰を受けてもそれを自分のせいだと受け入れさせ、思考停止の状態にさせていくということは、実はその人が人間らしく成長していく喜びを奪い取っているのではないかなと思います。そして、それは後々、スポーツから離脱する道へと導いていくのではないかと思うんですね。やっと部活が終わったとか、もうこれでああいう縛られた関係は終わるとか。高校までの部活動参加率が例えば5割、6割を超えているのに、大学へ来るとほとんどの子たちはもうたくさんだと、週1回とか2回でやるようなそういう同好会活動で、体育会系には入りません。でも本当はそうじゃないのではないかと思うんですね。もっと楽しくスポーツを追求したいと。でも、またあの高校時代までのやり方をもう1回やるのはこりごりだなという感じで、非常に後々までスポーツ感がゆがめられていく可能性があるだろうなと思っています。
 そういった意味でも、部活動を私的な世界から公的な世界に連れ戻して、教員は誰でもクラブワークの指導ができるようになってほしい。そうすれば、余り楽観的には言えませんけれども、部活動と体罰というのは無縁な関係になるのではないかなというふうに思います。まずは部活動にメスを入れるということが大事で、これは今までは本当に一人一人の先生の個人的な部分に任されていたおかげでさまざまなものがあぶり出せなかったのですけれど、そこをしっかりと学校教育の中に位置づけて、本来の部活動はどうあるべきだと。長野県が朝練の廃止みたいなことまで提言しているということは、子供の成長、発達にとって部活動がマイナスにならないような活動にしていこうということのあらわれだと思います。そういう意味で、スポーツ県を誇るのであれば、ぜひ静岡県でも部活動改革検討委員会もあわせて設置して、そういう全国のすぐれた部活動のあり方も参考にしながら、静岡方式を打ち立てていってほしいなと思っています。
 それから、3つ目はセーフティネットの問題です。これはどういうことかというと、部活というのは実は学校という公共の場で行われているにもかかわらず、その透明性が担保されておりません。まるで顧問教師と生徒には特別な関係がくさびのように打ち込まれているようです。なぜかというと、そこに自由に物が言えない関係ができているからです。だから、もし生徒たちがこれはおかしいなとか、自分は体罰を受けてなくても、本当に今の子たちって気遣いがありますから、友達が体罰を受けているときに物すごい自分も苦しいんですね。そういう思いをなかなか打ち明ける場所がない。だから、第三者の外部機関ってすごく大事だなと思っています。これを自治体ごとに設けるような体制づくりを県が率先して行っていただきたいなと思います。
 子供たちや親は理不尽な体罰を受けても、それを相談したり、告発する場所が本当は学校の中にあればいいんですよ。だから、浜松日体高校のように、マスメディアを使ってそれをあぶり出すことによって、確かに動かぬ証拠として、体罰をした先生は解雇になり、本家本元の日本体育大学の総長は、実は自分たちの学校の卒業生が体罰をしているという事実をたくさん目にしたことで、教員養成としてもこれはいけないということで、非常に今、大改革に日体大は取り組んでいるのです。そういう意味ではやっぱり系列校ですから、上部組織からの厳しい通達もあったことも予想されますが、その後も浜松日体高校は大学の先生を呼んで体罰防止の校内研修を開いたりとか、とにかくできる限りのことはしています。そういう意味では、マスコミに訴えるというのはすごく大きな効果があるのだろうなと思います。
 しかし、どうでしょうか。全ての問題が学校の外で、第三者機関でしか解決できないとしたら、学校ってどうなのでしょうか。やっぱり学校の中に自浄能力を持てるような力をつけていくことが大事で、そのために第三者機関というのは、ある面では過渡期だと思っていますね。そういうものは要らない。でも、今、それがないことによって多くの体罰が氷山の一角になっているということを考えると、まずは第三者機関を設置していただければと思っています。
 それから、最後に、いろいろ浜松の議員さんとも議論したときに、権利という言葉の使い方が非常に人によってさまざまだなと思いました。例えば権利といってもわがままであるとか、自分勝手であるとかという人もいれば、権利と人権はどこが違うんだとか、本来、人間が持っている大事なものじゃないかとか。子どもの権利条約というのが1989年に国連で採択され、1994年に日本政府は国会で批准しています。批准するということは、子どもの権利条約を実効あるものにしていく、取り組みを進めるという約束をすることなんですけれども、そのときに子供たちの保護と参加が問われたわけです。保護というのは、実は子供たちを未熟で弱いものとして大人たちが守るということですよね。例えば発展途上国であるとか、紛争が起きている国では、子供たちを戦場に行かせないというのは、まさに子供たちの命を守るという意味で、大人や教員がさまざまな形で子供たちをいい方向に導いていく。そのためには必要なものは教えなければいけないんだと。要するに、社会の通念として必ずこのことは大事だということを、学校教育を通して子供たちに、いってみれば内面化していくという側面と、でも今の社会そのものはどうなんだと。この社会を将来、よりよいものにつくり変えていくためには、子供たちにそういう社会に参画してさまざまな形で自分たちが意見を言い、そしてまさに決定のプロセスにかかわることによって責任感を持っていく。校則の問題でいうと、入学したときに既に校則があって、先生たちから校門の前で、「おまえ、何だよ、これができてない」とかと言われるけれど、ではなぜその校則があるのか、どうしてその校則が大事なのかという説明をきちんとしながら、毎年入ってくる子供たちとキャッチボールをするという面倒くさい役割があるわけで、それを省いてしまうと、結局、子供たちは常に縛られているだけのような意識になってしまう。そうではなくて、むしろその校則を決めるときに子供たちにかかわらせることによって、実は先生たちは大事なことを教えられるのではないかと思うんですね。自分一人が気持ちよく過ごすだけではなくて、クラス集団、学校という組織の中で、みんなが気持ちよく生活できるにはどんなことが必要なのだろうかということを考えていく、そういうことにつながるのかなと思います。そういう意味では子供たちが参画していくという部分が今後、問われるだろうなと思っています。
 実は、女子柔道の日本代表の選手15名が告発したというのも、今までこんなことは多分なかったんですね。でも、これをできたということは、僕の母校の筑波大学に今、山口香さんという大学の先生がいます。それから、静岡文化芸術大学の溝口先生――溝口先生は特に静岡県の教育委員でもいらっしゃいますけれども――彼女ら2人がその選手たちの相談に乗ってあげて、今しか言うときがないのではないかと、これを見過ごしたら同じことが繰り返されるということで後ろ盾になってあげながら、まずは自分の意見を訴えるということからスタートすると。今の子供たちにこれ以上の自由を与えたら、学校がばらばらになっちゃうのではないかというけれど、ではそんなに今の子供たちに自由があるのかということなんですよ。だって、放課後に遊ぶ自由はない、学校で先生たちにじっくりとわからないことを聞く自由もない。でも、守らなければいけないことは山ほど言われている中で子供たちが本当に自分でやったことに責任を持とうというような気持ちになっていくかどうかと考えると、やはりそこは子供たちの声を聞き、そして子供たちと一緒に決めることは決めていくことによって、実は責任感を育てていくのではないかなというふうに思っています。
 何と大阪府の教育委員会でも体罰防止マニュアルの中できちんと――大阪の場合にはかつて同和教育をやっていましたけれども、今は人権教育という名前に変わっていますけれども――子供たちを尊重して、子供の声に耳を傾けることは、決して子供を甘やかすことではない、自分で考えて、他者と共同して目的を達成するために、みずからに厳しさを打ちたてる中で責任が生まれるというふうに述べています。まさに、部活動のような非常に自分の限界にあるときには望みながらそれを越えていこうとする力、これを子供たち自身の中にどうつくっていくか、コーチングというのですけれども、こういう視点から私たちが体罰というものに今まで頼ってきた部分の根源をもう1回、きちんと問い直していかなければいけないなと。できればそういったことをもっと公の人たちできちんと話し合って、静岡県としてはこういう方向で考えていくのだということを巻き起こして、そして学校関係者だけではなくて、スポーツ関係者、地域の人たち、スポーツ少年団の指導者の人たちも含めてこの問題をなくす、変えていく。
 僕は2020年の東京オリンピックを迎えるのに必要なことは2つだと思っています。1つは、福島問題をきちんと解決していくこと。もう1つは、オリンピック精神にもあるように、暴力であるとか、人権の問題に対して日本の学校のスポーツ、地域のスポーツ、あらゆるところで暴力、体罰とは無縁のスポーツが行われているのだということを高々と示せるように。まだ7年あります。その間に日本のスポーツ界がそういう方向で変わっていくことが、本当に2020年を迎えられる1つの大きな試金石ではないかなと思っていますので、そのために私も、7年ありますけれども、少しずつ発言をしていきたいなと思っています。以上です。

○多家委員長
 ありがとうございました。
 以上で、大野木様からの意見陳述は終わりました。
 これより、質疑に入ります。委員の方にお願いいたします。質問はまとめてするのではなく、なるべく一問一答方式でお願いいたします。
 それでは、質問、御意見等がありましたら、発言願います。

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