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委員会会議録

質問文書

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平成25年11月子どもの人権擁護特別委員会 質疑・質問
質疑・質問者:前林 孝一良 議員
質疑・質問日:11/26/2013
会派名:公明党静岡県議団


○前林委員
 ありがとうございました。
 私も20年前まで高校の教員をしておりましたので、そういう意味では元教員という立場を考えた上でも先生のお考えを私は100%受け入れます。
 ただと言ったら申しわけないのですが、最後にオリンピックの話が出たのですけれど、私はオリンピックの話が出たときに非常に残念だったのは、まずやっぱり金メダルを幾つとるという話が出るわけですね。やっぱり勝利至上主義なんですよ。そういうものがまず出るということが、そういう方向に向かってこれから日本が進んでいこうとしているということがやっぱり社会としてあるということ。それとは関係なく、経済効果の話も私はむしろそんなものは出すべきではなくて、先生のお話の中にあったスポーツを楽しむというそういう角度でもってオリンピックを迎えるというそういうような姿勢があるべきだなと思っているのです。そういう意味で先生のお考えを、本当に私は全面的に受け入れると言ったんですけれども、ただ社会全体として考えたときに、まだまだそこまで持っていくことが厳しいですね。やっぱり甲子園を見ても思うし、例えばプロを見てもマー君があれだけ活躍して、次の舞台は大リーグだという話になったりとか、やっぱり勝利至上主義を打破するということはスポーツの世界では難しいなということをすごく感じたのですけれども、改めてとなりますが、その辺について先生のお考えをもう一度確認したいです。以上です。

○大野木龍太郎氏
 ありがとうございます。
 オリンピック憲章というものがありまして、100ページぐらいあり、物すごく分厚いんですよ。それを今、高校の体育の授業が、体育理論というのが必修になりまして、1年間に6時間ずつ計18時間、取り扱うことになりました。私も自分はそう言いながら、高校で体育理論なんてあったかなと思ったのですけれど。その中でスポーツに対する社会的な価値とか文化としてスポーツを捉えようということが初めて柱として出てきたんですね。その中の大事な教える項目としてオリンピックが出ているわけです。だから、オリンピックを通してスポーツとは何かというものを教えようと。オリンピック精神というものをひも解くと、あそこにはオリンピックは国と国の戦いではないということが明確に書いてあるわけです。にもかかわらず、さっき言ったように、メダルの数で競う。
 実は東西冷戦が続いていたあのときに、僕は大学の卒業研究で東ドイツと西ドイツのことを勉強したんですよ。西ドイツの1970年代のゴールデンプラン、第2の道と呼ばれるスポーツ政策を取り上げました。東ドイツはあのときに社会主義国の優位性を示すためにエリート主義だったんですね。国家が丸抱えで優秀な人たちを集めて、そして後からドーピングもしていたということがわかりました。でも、そういう中で結局、あのときには政治の道具だったんですね。要するに、社会主義国はいかにすぐれているかをあらわすためには、同じ土俵でメダルをたくさんとることなんだと。西ドイツはその土俵に乗らなかったのです。西ドイツは裾野を広げ、どれだけたくさんの国民がスポーツを楽しんでいるかという、トップスポーツだけがあって下がないのではなくて、まさに裾野を広げてその頂点にトップスポーツがあるのだと。資本主義国はスポーツをする自由、そしてスポーツができる環境で優位性を示す。だから、ドイツは自治体ごとに全て人口規模によってプールが幾つ必要だ、グラウンドが幾つ必要だということをやって、それに全て予算をつぎ込んでゴールデンプランを15年かけて壮大な施設整備計画を達成したんですよ。この方向の違いというのがすごく私は印象的でした。自分が勉強した中で、スポーツってそうやって勝つということに捉われるということは、それを求める人がいるんだと。だけど、本当はスポーツというのは身近なもので、私たちが生活をしていく上で、豊かさというか、生活の質をよくするものであるわけで、その選択肢の中の1つにトップスポーツがあるということが僕は理想だと思っています。
 日本がスポーツ振興法からスポーツ基本法というのを2011年につくったのですけれど、その中には明確にスポーツは国民の権利であるということ、そして地域のスポーツとチャンピオンスポーツの両方を発展させていくことが大事なのだとして、やっと日本もそういう世界基準に少しずつ立てるようになってきました。そういう中で2020年のオリンピックを迎えるわけで、私たちがオリンピックとは何かということをやっぱりしっかりと学ぶことがなかったら、多分、今と同じように、今度はメダルが幾つとれるんだというところに一喜一憂するようなそういうレベルでしかまだスポーツを見られないと思うんですね。それは、検討委員会をなぜつくってほしいかということにもつながるのだけれど、やはり私たち自身がもっとスポーツとは何かということをきっちりと学ぶ場所をつくっていかなければいけない。甲子園の問題とか、それから国民体育大会の問題も。あれは一巡したときに国体の使命は終わったと。なぜかというと、国体を迎えるための県の取り組みってすごかったですよね。学校教育からあらゆる部署が国体で天皇杯、皇后杯を絶対とるためにということで、ジプシー教員と言われて、かつては、そのときだけ有望な人をとっておいて、あとは使えないということでいろんな体育館とかに派遣したりとか、そういうことまでして何かやろうとしている。オリンピックだけではなくて、そういう身近なところで、国民体育大会のようなものでさえも、都道府県の威信を示す手段の1つとして使われてきた。だから、反省しなければいけないところはトップのところだけではなくていっぱいあるということで、一遍にそれを改革するのは難しいとは思うんです。だけど、私たちが必要なのは、やっぱり学ぶことと、教育という場できちんとそういうスポーツを理解できる力をつけていく、これを焦らずにやっていくことではないかなと思っています。
 親を変えるというのはもっと難しいです。なぜ難しいかというと、親になった途端に学ぶ場所がないんですよ。例えばスポーツ少年団で指導者として入る。サッカーだったらライセンスが必要です。そのライセンスの中には、当然、こういうスポーツのフェアプレーとかそういうあらゆるものを学ぶ中で指導者としての力量を高めていく。ライセンス制度をとっているところは余りないのですよ。柔道なんかはもっと必要じゃないですか。柔道って過去20年間で110人ぐらいの人が指導の一環で亡くなっているわけです。部活もそうです。フランスなんかは有資格者でないと柔道は教えられないということになっているんですよね。でも、日本の体育教師はどうでしょうか。柔道で段を持っている人はどれだけいるでしょうか。段を持っていればいいということではないんですね。そう考えてみると、やっぱりもっと私たちが指導者というものに対する尊敬と、それからそこに対する権威。単に競技成績がよかったというだけで指導者としてあがめるのではなくて、本当に子供たちのことをしっかりと見て育てているのかどうかというそういう視点で、まずは指導者を変えることかなと思っています。そして、そこの指導者の人たちが親を巻き込んだしっかりとしたクラブづくりをしていく。こういうところが網の目のようにできてくると、多分、メダル主義に対する別の見方というのが少しずつ日本は育っていくのかなと思いましたけど。

○前林委員
 私の心に矛盾があるんですね。甲子園の野球大会ですけれども。自分の心の中であれを楽しむ自分もいるのですが、一方でもって、あんなのはやめたらという気持ちもあるのです。やめたらということに対して先生のお考えをお聞きしたいです。

○大野木龍太郎氏
 僕はやっぱり野球が持っている文化――桑田さんの本を最近、随分、読むのですけれども――野球っておもしろい文化で、何かいつでも、甲子園でもそうなんだけれど、勝敗が決まったときに監督が最初にインタビューされるじゃないですか。ということは、いかに勝つことに対しては監督がすばらしい指導したかどうかが問題になるのですね。それは教育の一環であるというふうになっている。生徒たちがどれだけ自分たちで工夫していろんなことをしたかというところは、ほとんどネグレクトされるわけですよ。
 だから、僕はそういう全国大会をやること自体は決してノーとは思いません。だけど、そのときにどういう評価をしていくのかというところで、ああやって監督がまず一番最初に評価されていく。教育の一環であるということは、いかにすぐれた指導者がそこにいて指導したかみたいなことがいつもそこについて回る、そういう今の体質が大きな問題かなと思っています。だから、やめちゃうのは多分、無理だと思うんですね。
 もう1つは田中マー君が日本シリーズで、彼は投げるのが最後だと思って第6戦で160球を投げたんですね。でも、次の日にまたベンチに入って最後の9回に登板しましたよね。これはアメリカでは全くあり得ないことで、アメリカではどんなにすぐれた選手がいても、そういう使い方はしないんですよ。日本というのは、そういう意味では勝つためには、もしかしたらその選手が壊れるかもしれないけれど、それも受け入れてしまうような体質がある。アメリカはそれを防ぐために、例えば少年期だったらカーブは投げてはいけないとか、100球以上は投げてはいけないとか、連投はしてはいけないとか、あらゆる形で選手たちが長くスポーツを楽しめるようなガイドラインをつくっているんですね。
 日本だったらどうでしょうか。そういうものをつくろうとしたときに、誰がまず反対するでしょうか。選手たちはきっとそれに対して反対するでしょうかね。反対する人たちは誰なのかというのを見たときに、やっぱり誰のためのスポーツなのかと。もう1回、原点に返って、子供たちが主役で、子供たちがもっとうまくなりたい、先生、どうしたらいいか教えて、ここから先生の仕事はスタートするわけで、先生が甲子園に絶対にこいつらを行かせたいとかと思って選手たちに向かうというのは、僕は反対じゃないかなと思っています。だから、そういう意味ではなくすことは無理だとしても、やり方は変えてほしいなと思いました。

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