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本会議会議録

質問文書

開催別知事提案議員別代表質問一般質問検索用



平成30年6月静岡県議会定例会 質問


質問者:

吉川 雄二 議員

質問分類

一般質問

質問日:

06/29/2018

会派名:

自民改革会議


質疑・質問事項:

1 知事の政治姿勢について                     
 (1) 知事の政治への姿勢                      
 (2) 人づくりと有識者会議                      
2 文化行政について                        
 (1) そも文化とは                         
 (2) SPACによる舞台芸術                     
3 教育行政について                        
(1) 読書のススメ                         
 (2) 早期英語教育                          
4 県警察の働き方改革について   


○議長(渥美泰一君) これで、鈴木 智君の質問は終わりました。(拍手)
 次に、五十八番 吉川雄二君。
       (五十八番 吉川雄二君登壇 拍手)
○五十八番(吉川雄二君) 本会議も今日が楽日。知事、そそり芝居の段、平に御容赦願います。
 財務官僚のセクハラ事件を聞いて床屋のおやじがぼやいた。「なにせ相手は名にし負う朝日新聞系の女だ」。東大だろう、せめてマルクスボーイでも気取って知的会話に時間を費やせばよかった。泉下の丸山真男先生が聞いたらさぞ悲しむことだろう。知事もそうは思わぬか。
 伊藤博文公、この方政治家の艶話は我が大和の国の美風だが、それはみんなプロの女だ。そこへいくとノーパンシャブシャブ以来、浮き世離れした大蔵官僚はとかくアマチュアの女で間に合わせがちだ。知事これって昌平黌、開成学校以来の美風なんでしょうかね。
 それにしても知事、今の世の中、男と女の間にもマルクス的抑圧史観を持ち出すんですかね。味気ない世の中じゃありませんか。あだしが原の霜を踏んでともに死んだ「曽根崎心中」のお初と徳兵衛、ありゃあどっちが抑圧者で被抑圧者だったんでしょうかねえ。
 蜀山人なんかとうの昔に嘆いておりました。世の中に絶えて女なかりせば、男の心、のどけからましって。まあしかし男と女のこと粋なせりふの一つも欲しい。例えば男もつらいが女もつらい。男と女はなおつらい。小林旭の夢ん中ですよ。カラオケ大好きなひな壇の某部長、きょうは歌わないでください、時間がありません。
 古い話で恐縮ですが、昔、小林旭はマイトガイ、そして今日、私、吉川は問題外。その問題外の吉川、通告に基づき質問申し上げるものであります。
 初めは、知事の政治への姿勢であります。
 知事、筆は一本、箸は二本。衆寡敵せずとしても一度は筆を持って衆に抜きん出ようと決意した人。経国の大業を文章をもってこれをなさしめんと一旦はその志を持した人。それを筆を折ってまで何ゆえ政治の道に志したのか。私、吉川みずからの志、区々として凡庸なるがゆえ理解できないのであります。
 政治は時としてその多様性を否定することもままある。それゆえ政治は汚いものであるという観念を払拭できないのであります。しかしながらたとえ政治が邪悪なものであるとしても、我々の生活に少なからず影響を及ぼすものであってみれば我々のなす行為はすべからく政治に結着するのであります。我々の喜怒哀楽も現世にありそれゆえ形而上学的幸せもまた政治に左右されるのであります。
 時ここにおいて肝要なるは政治のその捉え方であります。政治を権力闘争あるいは経済的利害の調整として捉えるのではなくそれは人間存在の本質を表出する精神の運動として捉えるべきであります。現今、我々に求められているのは実に真善美に逢着する真の知性をもって政治に切り込んでいく熱力であります。
 ドイツの宰相ビスマルクは、政治とは可能性の芸術であるとの言葉を残したのであります。我々は時としてその可能性を懐疑することも必要ではあるが、懐疑も過剰に及べば時にその帰結としてニヒリズムに落ちる。言葉のむなしさ寄ってくる論争のむなしさであります。ましてかつて言論人であった川勝平太氏なら間々あると推測するものであります。
 しかしながら我々が政治の可能性を信じるには、かかるニヒリズムから遁走し自由な意識の進展を信じることであります。かかる自由な意識の自由とは人間が意図せざる自然派生的な秩序に制肘されるものでなければなりません。それゆえそれは我々の歴史や伝統の叡智に裏づけられているのであります。
 知事、知事はどのような思想をもってニヒリズムと折り合いをつけ、あるいはこれに耐え虚無とは無縁のところにあらねばならない政治と真向かいこれに切り結んでいくのか。私の管見に対する応答も含め、知事の政治への感懐をお伺いをするものであります。
 人づくり・学校づくり実践委員会のメンバー一覧を見て床屋のおやじが言った。「知名の発言屋を安易に集めて審議会をつくり知事や役人が自分で考えりゃあ済むことを諮問する。本県行政だけではない、我が国行政の悪弊だ。これって相当なパルプと電力の無駄遣い。人づくり、神をも恐れぬ所業だ。ならば聞く、多様な生き方をもって良とする時代、理想とするその人間像のその根拠は、そしてそれを誰がどこで拾ってきたのか。またどのような人間にそのような教育が可能か。議員諸兄考えてみるがいい。人間は男と女の神聖な行為によって生まれる。後は親の責任だ。たかだか納める税金で自分の子供をこうしてくれと言う方が間違っている。日本人はいつからこんなふうになってしまったのか。知事は元来が教育者だから諮問したところでしょせんネズミ一匹出てこないことはわかっているはずだ。矢野委員長ともあろうお方が、我々にはそれはかなわぬこととなぜ知事に言わぬ。幾ばくかの手当と名誉のためでもなかろうに。むしろ今日論ずべきは人づくりより子づくりだ。少子化という暗いふちをのぞいている日本人のことを考えてみるがいい。剽窃の感はあるが少子化と言えば思い出した。昔の東北の農村を写した写真だ。小学校の低学年とおぼしき少年がみずからの男根をつまみ立ち小便をしている。そのキャプションに『もっと遠くへ。さらに遠くへ。まあこんなもんか。大人になったら見てろ女ども』と、立ち小便をしながらみずからの男根に夢を託す小学生。そんな気概を持った子供を育てる教育が今日、日本の少子化に歯どめをかける。議員諸兄、兄等はそうは思わぬか」。
 なお、ちなみに私吉川、子供は三人、外にはいません。子づくりは上手だが子育ては下手。よって息子赴は、いまだ浪人中であります。
 人づくりに対する知事の感懐、さらには人づくり・学校づくり実践委員会を初めとした、本県有識者会議に対する知事の御所見をお伺いするものであります。
 次は、本県の文化行政についてお伺いをいたします。
 初めはそも文化についてであります。
 そも文化とは何か。エリオットの言葉を拝借するならそれは人の生き方であります。一つの民族、一つの時代に特有な人の生き方であると喝破しているのであります。
 それは人の生活様式であり単に人の好みとかしきたりの問題にすぎないのであります。よって客体化することも不可能ならば見ることも意識することも不可能なのであります。にわかに合理的に説明できないもの、それが文化であります。
 我々は室町文化と言えば、例えば金閣寺をほうふつするが金閣寺は単なる歴史的遺物であって文化ではありません。物を文化として捉えることは過てるものでありそれは文化を具現するための媒体にすぎないのであります。むしろ文化の本質は人の生きるフォルムにあり、よって金閣寺は室町時代の人の生き方がそこに投影されているにすぎないのであります。
 その意味においては戦争も政治も文化であります。知事、ハリー・ライムは、ボルジア家の圧政はルネサンスを生んだがスイス五百年の平和は何を生んだか、それは鳩時計だけだ、と名言をもって戦争の一面を活写した。あの八月十五日の青い空がなければ、三島文学はなかった。文学の慈悲深き母、実にそれは戦争であります。
 文明は目に見える物質的、客体的なものであり一方、文化は目に見えぬ精神的、主体的なものであります。文明が人為的なものであってみればそれは文化の下支えなくしては成立しないのであります。
 明治という時代、和魂洋才という一つの価値が明治の近代化の中で称揚されたのであります。しかしながら文明が文化の下支えなくして成立しないのであってみれば和魂をもって西洋文明を摂取するなどという行為は極めて奇妙きてれつな行為なのであります。むしろ明治という国家はその進取の気概の赴くところ和魂をもって洋魂を凌駕せんとしたのであります。知事の御所見をお伺いするものであります。
 次は、SPACによる舞台芸術についてであります。
 床屋のおやじが呆れて言った。「SPACって言うから、スパッツかと聞いたらそれはもも引きだと言われた。ならばスマップかと聞いたらそれはとうに解散したと言われた。そりゃそうだ。SPACと言っても静岡県民の二〇%しか知らない。この程度の認識だ。宮城大先生はわかっているのか。戦後上野の闇市のギャバジンのズボンのたたき売りのおっさんでもあるまいに文化の安売りだけはやめてくれ」
 SPACのやる舞台芸術を好むか否かは県民それぞれの趣味の領域にあります。好む人がいて好まない人がいる、それが文化であります。仮に本県が静岡県舞台芸術センターで美空ひばりショーを上演するとしましょう。本県行政の視点で物申すならこれもまた文化施策でありましょう。しかしながら私は本県行政がこれをなさぬところにSPACの舞台芸術は高尚で美空ひばりショーは低俗であるといった皮相かつ愚劣な認識をそこに看取するのであります。
 床屋のおやじがせせら笑って言った。「それは江戸前のそばは高尚で、讃岐のうどんは低俗であるといった類いのことか。極めて差別的な論理だ。うどん派が聞いたら怒る。ならばカルビとロースもしかりか。難波と吉林もか。どっちが高尚か低俗かではない。優劣でもない。それを言ったらおしめいだ、難波と吉林が怒る。どっちが好きか嫌いかだ。しょせん、それは文化の範疇だ。もっとも土屋はオリンピックで忙しいから吉川同様問題外」。
 私、吉川、平成六年よりこの方SPACの手による舞台芸術の愚のきわみなることを言をきわめ語を尽くしてこれに批判の矢を放ち指弾してきたのであります。自来二十有余年、星霜移り人は去り、かじとる舵子は石川から川勝にかわれども本県行政は十年一日これを称揚し、際限もなく繰り広げてきたのであります。二十年不況に苦しむ県民から九十三億円余の金を絞り取り、臆面もなくこれに費やしてきたのであります。
 議員諸兄は御存じか。昨年のSPACの鑑賞数を。驚くなかれ、三百七十万県民をしてわずか四万七千人余。実に一・二%にすぎないのであります。
 かかる惨状は行政サービスの均てんの原則を欠くは明白であり民意の大勢、県民のコンセンサスいずこにありやと構えるとき、それが県民的基礎を有しているとは到底思えないのであります。我々はかかる暴挙をいつまで許しておくのか。SPACによる舞台芸術は本年をもって収束に向かわしめることが今まさに本県行政の現下爛頭の急務であると思慮するが、知事の御所見をお伺いするものであります。
 次は、本県の教育行政についてお伺いをいたします。
 初めは読書のススメであります。
 読書のススメは実に学問のススメであります。人間が言語動物たるそのゆえんは人間は言葉をもって思考するからであります。それゆえ言葉と思考が分かちがたく一体であってみれば深々たる思索は豊富な語彙の土壌に育つのであります。しからしめるところ語彙の多寡は思考の深浅の水位を決定し、その習得は一も二もなく活眼をもって活書を読むところの読書によるのであります。
 語彙が豊かな人といえば、私はこの議場にあっては川勝知事と天野進吾先生二人を知るのみであります。物騒な話ですがもし二人が幽明境を異にすれば、チーン。それはさながらこの世から図書館二つがうせたるも同然なのであります。
 読書によって培われる思考能力は読解力あるいは作文能力によって担保されており、かかる読解力は古今東西の名著あるいは哲学書に遊ぶところの読書を回路として推敲された格調高い文章あるいは難解な文章との格闘によって練磨されるのであります。さらに作文は正確な日本語を駆使しての表現力の鍛錬でありそれは論理的思考能力の涵養と想像力の活性化を促すのであります。
 それゆえ、生徒をしての作文能力の陶冶は人文社会科学分野のみならず自然科学分野の発展にも寄与するものであります。なぜなら自然科学分野の進展には奔放不羈にしてしなやかな想像力が必要にして不可欠だからであります。日本人で初めてノーベル化学賞を受賞した福井謙一博士の中学時代の愛読書は「ファーブル昆虫記」であり、漱石の「夢十夜」だったのであります。ちなみに私の大学時代の愛読書はなにせ武闘派の明治大学でしたのでアントニオ猪木の「燃えよ闘魂」でありました。愛読新聞は東京スポーツ、通称東スポ。なお赤尾敏先生から、左菌というばい菌がつくから、朝日、毎日だけは読むなとの御指導でありました。まあ私のことはどうでもいいけど。
 さらに読書は教養の基であり、教養が事物を大局的に捉え、その本質を見抜く目であってみれば実に教養の多寡は眼識の高低の境位を決定するのであります。進んで読書は物事の真理を懐疑する力を醸成するのであります。懐疑する力、それは哲学の基礎をなすものであり我々政治の当路にある者にとっては必要欠くべからざる力なのであります。
 懐疑の過剰は虚無に及ぶが、我々は過剰を恐れず政治を社会をそして時には人間の存在そのものも懐疑の念にさらすことであります。その向こうに必ずや新たなる真理が見えてくるのであります。
 例えば、戦後フレームの解体であります。我々はこれを良として言挙げするならば戦後の言語空間にあって戦後フレームの基底をなす、平和、民主、平等といった本当に正しいのかということです。戦後的観念を懐疑の念にさらすことであります。民主主義正しからず地方分権必ずしも正しからずと構えることも、またしかりであります。
 本年一月自裁した西部邁は近代を超克できずとも懐疑せよとまさに正論をもって切言したのであります。懐疑の念なくして新たなる真理への悟達など蛙鳴の間に鶯声を聞くにも似て困難なのであります。かかる懐疑する力の涵養もまた読書によるのであります。
 教育長の私の管見に対する感懐と、あわせて読書活動をして学校教育のその評価の範疇に入れるべきと思慮するが、教育長の御所見をお伺いするものであります。
 次は、早期英語教育についてであります。
 議員諸兄、フランス人を見るがいい。ミッテランを見るがいい。英語をよくするも公の場では決して英語を使わない。いつのときも英語何するものぞの気概がある。議員諸兄は一八七一年、普仏戦争敗戦時におけるフランス領アルザス地方の小学校での物語「最後の授業」を読んだことがあるか。担任のアメル先生は、フランス語は世界で一番美しく一番明晰な言葉ですと生徒に語り、最後に黒板にフランス万歳と板書し最後の授業を終える。極めて感動的なシーンだ。
 事ほどさよう、彼らは母国語に対して絶対的な矜持を持していた。昭和二十年八月十五日、日本にも最後の授業の危機があった。そしてそれは今も続いている。そも日本人とは何か。それは日本語だ。神武天皇八紘を掩いて宇となしてより二千六百七十八年、連綿する我が国体とは日本語であり大内山にあらせたまう神御一人なのであります。
 現今、小学生の著しい国語力の劣化、よるところの学力の低下に等閑を付し、英語を必修科目にするなどという愚行は、国家衰亡のターニングポイントとして後世のそしりを受けるはまさに必定なのであります。文科省のお役人の頭は大丈夫か。
 床屋のおやじが怒って言った。「東大優先、国民二の次でやっているのうてんきな文科省のお役人の考えそうなことだ。日本の子供を第二のフィリピン人にする気か。泉下のマッカーサーがさぞ喜ぶことだろう」。私吉川もそう思います。大胆に構えて申し上げるなら、ひっきょう早期英語教育は我が国の伝統文化への挑戦にほかならないのであります。肝要なるは単に英語を話すのではなく、話し手の教養であり品格でありその内容なのであります。その内容が鴻毛のごとく軽くうろんならば相手のその敬意をよらしめるどころかひんしゅくを買っておしまいなのであります。話し手の教養の基は日本語によって立つ読書であり、進んで品格の基は自国の伝統文化の理解と矜持であります。これなくして真の国際人たり得ないのであります。
 明治の留学生がかの地において人々から畏敬と敬愛の念を集めたその主因は、具備せる漢籍の教養と武士道の規矩を遵守するその精神にあったことは言をまちません。彼らには確たる歴史観に基づく国家観とそしてこれに張り合わされた日本人としての矜持があったのであります。
 国際社会における国家の存在感、その国の国民の英語力、これは無縁にして次元を異にする事柄であります。それはさながら都大路の真ん中でこたつを囲みモツ鍋に舌鼓を打つ京都帝大生の学力と礼節の相関ごときもの。花のお江戸はその西北に蟠踞する知事、床屋のおやじがあきれて言った。「栄華のちまたを低く見る尊大な学風に遊ぶ官吏養成学校東大に比べれば、人生を旅にしあればと諦観し逍遥する京都帝大生のやりそうなことだ。しかし泉下の西田幾多郎先生だけには見せたくない。知事もそうは思わぬか」。
 さて、現今まさに緊要なるは敷衍するアメリカ発のグローバリズムの因循から離脱し、おのおのの国がおのおのの国の言語によるおのおのの国に特異な伝統文化を相互に尊重し合うことであり、かかる認識に発するローカリズムを大いに宣揚しこれを層一層恢弘することであります。
 英語を至上とし、これを先兵とするアングロサクソンの文化侵攻に非を鳴らし、これに敢然と対峙するは実に我が国の文化防衛戦にして思想戦なのであります。現今、緊要なるは文科省あるいは本県教育委員会が、かかる認識によって立つ日本語に対する矜持をしかと持すことであります。二十二世紀には日本語は滅びるだろうとの推論は、決して杞憂ではないのであります。本当に空から天が落ちてくるのであります。教育長の御所見をお伺いするものであります。
 次は、本県警察行政についてお伺いをいたします。
 県警察の働き方改革についてであります。
 グローバリズムを錦旗とする我が国の構造改革は、勤勉孜々として豊かになるという農耕民族の勤労の精神に支えられていた日本式経営を突き崩し、ひっきょう我が国に伝統的な労働文化を毀損せしめたのであります。今般、我が国政府が推進せんとしている働き方改革はまさにこの延長線上にありさらなる破壊を惹起するは必至なのであります。
 議員諸兄、また吉川のよた話かとは言わずに聞いてほしい。天下御免のパンツ泥棒、二つ名を人呼んでパンドロのヨシ、中学時代のマブ達だ。脳みそはアパルトヘイトだがハートは極めてナーバスな男だった。先年、八十もとうに越えたヨシのおふくろから柄受けを頼まれ署に行った。「はき古した御婦人のパンツを盗むなんざ病気の世界だ。警察はなぜ病気の人間を捕まえるんだ」と言ってやった。どこの署とは言わぬが。そのヨシの話だ。
 政治家は書くこと、話すことを専らにする職業だ。しかし県警察のお巡りさんは、書くこと、話すことにおいて、我々より頭一つ、いや二つ出ている。日本は平和憲法があるから暴力はだめだ。しかし言論は自由だ。お巡りさんは口が達者。トークの達人だ。人の心を動かす言葉のつぼを心得ている。NHKのアナウンサー並みに言葉を操ることにたけている。
 「なあヨシ、おめえにも八十になるおふくろがいるんだってなあ。心臓が悪いって言うじゃねえか。おまえがうたわなけりゃあおふくろを呼ぶしかねえ」と心臓が今にも凍りそうな言葉で話しかけたと思ったら、隣にいたお巡りさんが、「ヨシ、おめえが悪いんじゃねえ。世間が悪いんだ。おれにもよお、おめえぐれえの餓鬼がいるんだ」とホロリとくることを言う。これで頭はすっかり冷ややっこだ。物を売れないセールスマンを抱えている会社は勉強に行かせた方がよい。口が達者だが書くことも実に達者だ。聞いたことを感情も入れずに右から左へ素早く書く。二十枚から三十枚、時には百枚以上、制限時間以内に書く。話すことをたちまちのうちに文章に変換する。その技術がすごい。しかもその文章は簡にして明、加筆訂正なしだ。おまけに達筆だ。しゃばじゃあよく女を、「なぜ女優にならなかったの」と言って落としたもんだが、調書をとるお巡りさんには、「なぜ、小説家にならなかったんですか」なんていうスラッ世辞は通用しない。それは職業だからだ。
 以上の事、本日録取し読み聞かせたところ間違いない旨申し述べ署名指印したと被疑者に氏名を自筆させ、さあ指を出せ。ここに押すんだとティッシュペーパーとシャチハタのスタンプ台のようなものをよこし、はい御苦労さん。これで捜査結了でおしまいであります。何しろ手際がいい。議員諸兄も一度経験することをお勧めする。
 教員の多忙化もさることながら日本で最も忙しい公務員は警察官であります。それはさながら我が帝国海軍誇りの海の男の艦隊勤務、月月火水木金金であります。今日、教員には鬱病患者がつくだ煮にするほどいますがこれに比べて警察官の中に少ないのは、それは赤門出の桜田門のお偉いさんを除けばその出身が全てとは言わぬが、日東駒専大東亜帝国だからであります。そうです。忘れてはいけません。本県の警察本部長も赤門の出であります。失敬しました。大東亜帝国の国、国士舘大学も多いようであります。先年いた交通部長も国士舘大学でありました。私は高校時代あの部長に柔道のインターハイの県予選で大外刈りで一本とられております。
 私、吉川、柔道四段、ごらんのとおり耳は若干つぶれましたが顔はつぶれませんでした。よって選挙のときはポスター映えがするといって褒められております。女子高生が私のポスターを盗み勉強部屋に張ってあったというほほ笑ましいエピソードも今では伝説として残っております。
 その学生時代の私の柔道は立ってよし寝てよしでありました。立ってよし寝てよし、知事どこかで聞いたことのあるフレーズだ。いずれにせよ国士舘大学体育会系であります。しかも柴田凡天先生の薫陶のよろしきをもっての筋金入りの憂国の士であります。もっとも日東駒専の日、日大は今はやばい。静岡大学教育学部出身の青白い先生とは心と体の鍛え方が違う。もっとも偏差値も違うが。やわな学校の先生なんてしょせん警察官にとってみれば、エイズ病棟に間違って入ってきた淋病患者みたいなもの。鍛え方が骨の髄の髄までいっていない。
 実は、肉弾相打つ武闘派は交番のお巡りさんであります。知事、知事は昭和七年の第一次上海事変を覚えているだろう。その上海事変は廟行鎮の敵陣に爆弾を抱えて突撃した爆弾三勇士に劣らず交番のお巡りさんは実に勇敢であります。たかがハコ番と侮ってはいけません。犯人と格闘中に腰の拳銃をぶっぱなすのも彼らであります。プロの刑事さんのあいつはホンボシだという直感はほぼ正しいことが多いようであります。まさに一子相伝の趣がある。わけてもデカ長とかマムシの某などと呼ばれているベテラン刑事さんはそれはまあ見事なものであります。この勘を裏づける証拠を集めるのが刑事さんたちの仕事であります。ですから仕事は実に地味であります。刑事さんが格好いいのはそれはテレビの世界であります。柴田恭平や舘ひろしのように若い女性に受ける刑事さんや婦人画報の愛読者のおばさんたちに受ける水谷豊のようなタイプの刑事さんは、ほぼ皆無と言ってよいでしょう。もっともティピカルな刑事さんは何を考えているかわからない、仲代達也や川谷拓三といったところでしょうか。いずれにせよ警察官は忙しいのであります。
 勤務時間が終わっても、妻が家で待っています。残業は能のない人のやることですからと言ってたとえ新婚であろうとも帰るわけにいきません。そこにあるのはまさに正・強・仁の精神に張り合わされた蕩揺することなき絶対的使命感であります。
 今日、サイバー犯罪あるいは振り込め詐欺とその手口が巧妙かつ多様化する中、警察当局の捜査も層一層の困難を来しているのであります。
 警察業務が本然持つ特異性あるいは特殊性及んで近年惹起するさまざまな事件の複雑化、あるいは多様化からすればそれは政府の働き方改革という器には到底おさまるものではありません。県民のその財産と生命を安きにつけ、もって県民生活の安寧を図るは県警察本然の責務であります。
 明治の司法卿江藤新平の国家の勢威は国民の安堵にありの言に徴するならば、かかる責務の遂行は県勢進運の基であります。時ここにおいて今般政府がなさしめんとする働き方改革は、かかる責務の十全なる遂行を阻害するはまことにもって明白なのであります。
 私の管見に対する警察本部長の所見、これに対する県警察の働き方改革への対応をお伺いするものであります。
○議長(渥美泰一君) 川勝知事。
       (知事 川勝平太君登壇)
○知事(川勝平太君) 六月議会のトリを飾るにふさわしい名調子、私を含め議場全員が聞きほれた感がございました。
 床屋のおやじ殿の話をお聞きしたのは平成二十一年のことでございました。そのときには批判、苦言、中傷、非難、これにたけた床屋のおやじ殿に一度お目にかかりたいと強く思った次第でございますけれども、足かけ十年の歳月が流れまして十年一節あるいは苦節十年といいますか十年で床屋のおやじ殿の教養、品格も含めて大いに上がり、そのぴりっと効いた批判精神ともども敬服した次第でございます。よろしくお伝えくださいませ。
 私の政治姿勢についてのうち、私の政治への姿勢についてでございます。
 政治の目的というのは、現実の人々の社会を平和にし人々の暮らしをよくすることであると私は考えております。そのためには社会、地域の現状を把握せねばなりません。現状を把握しなければ問題を解決することができないということでそのために学問も必要であると考えております。
 広く知識を古今東西に求め、日々勉強することをみずからに課しておりますがこの十年間は静岡をもってフィールドワークいわば現場学の対象といたしまして、現場で聞く県民の皆様のお声をもとに必要な政策を立てる現場主義を政治姿勢として県政運営に邁進しているところであります。現場を常に道場と心得る姿勢が要るとみずからに言い聞かせ、常に道場にあり常在道場を旨とし、お越しになる方、来る者は拒まず、お越しになる方は必ず何らかの必要があってお越しになっているので、助力は惜しまず、もちろん見返りは求めぬということを心がけております。
 九年前、私はこの議場におきまして知事就任の御挨拶と所信を申し上げました。ドイツの学者マックス・ウェーバーの「職業としての政治」という講演録から、この世が政治家の理想とするものにとって余りにも愚昧で卑俗であっても「それでもなお」――ドイツ語ではdennoch、英語ではneverthelessと――「それでもなお」と言い得る者のみが政治を職業とし得ると結んでいることを申し上げましたがその一文は今も肝に銘じております。
 毀誉褒貶にさらされるのは、常態ということで失敗をし挫折いたしましても、それでもなお屈せず堂々と誠実に国内外から憧れられる理想郷をこの静岡の地に築こうと全力で取り組んでおります。県議会の先生方、皆様の御理解と御支援をお願いを申し上げます。
 なお、御指摘いただきました冒頭で筆を折ってまでなぜ政治の道に志したのかという御指摘でございますがそれは真実ではありません。この九年間、十二冊、雑誌などに投稿したものを除きまして背表紙、表紙に名前の冠せられているもの十二冊、うち八冊が日本語で四冊が英語でことしになって二冊、書も出しております。
 なぜ勉強が必要かと、例えば私の場合には社会科学を志しております。社会科学は基本的に現状分析です。現状を分析すれば問題が明らかになりますので変えねばならないという課題が明確になるということですから実は現状分析は現状の変化と行動をはらんでいるということでございます。
 しかも日本の学問というのは、古くは聖徳太子、あの方は維摩経、法華経、勝鬘経、これをみずから熟読されて講義もなさりそれの解釈書である三経義疏もあらわされて日本を仏教の立国の基礎にされました。あるいは徳川家康公もまたこの文武両道ということで武家諸法度で文を第一に武を第二義にされた方であります。そしてまた明治維新におきましては五箇条の御誓文におきまして一条、二条、三条、四条、五条にまいりますと、「広く智識を世界に求め大いに皇基を振起すべし」とこううたっているのであります。私はこの国は学問立国を聖徳太子以来やってきた国だという感懐を持っております。
 それから、そのニヒリズムという重大な問題をお出しになられました。なるほどドイツ帝国宰相ビスマルクが政治は可能性の芸術であると言ったと。一方可能性が否定せられ続けますとニヒリズムに陥りかねません。どのようにそれを克服するかというのは極めて大きな問題であります。日本にニヒリズム、虚無主義というのが横溢したのは明治末年、特に昭和に入る直前ぐらいからだと存じますがこれはニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」というものの翻訳がされて以来だというふうに思います。ニーチェのこの書物はメッセージは神が真だと、神は真だということを言っているわけでございます。そしてそこで万物流転、生々流転するものでしかないというふうに言っております。
 しかしそのメッセージは一体何かと言いますれば、改めて見ますとツァラトゥストラとは何者ぞといいますとこれはアーリア民族の宗教であるゾロアスター教の教祖であります。そしてゾロアスター教の教祖であるツァラトゥストラのアーリア民族というのはセム系ではないということであります。言いかえるとセム系の人たちがおつくりになったユダヤ教、キリスト教、こうしたものはみずからの民族の神ではないということを言った。したがってキリスト教の神はルサンチマンであってこうした神を我々アーリア系の民族は信ずるべきではないというメッセージであったというふうに思います。
 しからばどうするかと。ツァラトゥストラ、超人になる以外にないと。しかし超人は生まれません。そうした中でニヒリズムというのが世の中に蔓延することになったかと思います。それを日本もまともに受けました。しかしそうしたものをどう克服したのかといったときに先生はこの日本の伝統にある、自然派生的な秩序というものがあると言われましたが私はそれであると思います。
 すなわち、例えば梅原猛はニーチェ、ハイデッガーに溺れるようになりほとんど酒と何がしに溺れて、ただただ放らつな生活になって死の境地をさまよわれた。そのときに出会われたのが空海であり仏教であります。その中で何がことほがれていたかと生きとし生きているものは全て仏性があって生かされているのであるということでございまして、これは一言で言えばやおよろずの神がこの世の中にいるとこの国の縄文時代以来のそういう自然発生的な価値ではなかったかと思います。己が生きているのではなくて己が生かされて、生かし生かされている関係の中で全てのものの中に救いがあるという、その自然発生的な哲学に出会って彼は救われたとみずから言われていると思います。そうした万物をことほぐ精神がこの国の中に流れているのではないかと思いまして二十一世紀、環境の時代にそうした哲学は、彼の言葉で言えば天体本学論でありますがそれは生きているのではないかというふうに思うところであります。
 私自身は常に勉強いたしまして、それでも足りないと思っておりますがそれぞれ勉強しないと要するに仁義礼智信というのがございますがそうしたものは反対のことをすると。つまり思いやりの反対、いじめとかあるいは虐待とか義、不義を働くとか、あるいは礼、無礼を働くとか智の反対、無知蒙昧であると、あるいは信、信用を失うとかこうしたことは全て勉強や努力を通してしか仁義礼智信などは身につくものではないというふうに思っておりまして、一生勉強であるというふうに思っておりまして筆を折るとか折らないとかということでなくて学問の対象がいわば書籍プラス現場になったというそういうことでございます。富国有徳の理想郷を世界に広めるという、この旗はおろしません。
 さて次に、文化行政についてのうち、そも文化とは何かについてであります。
 これは先生の言われたとおりであります。文化とは生き方であるということであります。しかしこれは翻訳語です。もともと文化というのは文によって化すると、したがって一九六〇年代から七〇年代にかけて毛沢東が文化大革命をいたしました。文によって紅衛兵を強化するということで、つまり毛語録によって実態としては青年たちを扇動して劉少奇を追い落とすということであったわけですがこれがもともとの文化の意味であります。
 しかしながら、日本は明治以降向こうの言葉を翻訳するという中でやがて文化については文化人類学とか民俗学という学問ができまして、これが人々の生き方であると、生活様式であると、目に見えないものと目に見えるものとから成っているのが文化であると。したがって衣食住も文化であります。価値観も文化であります。そうしたものが共同しているのが民族であると。文化共同体が民族であるということで文化はその民族のアイデンティティであり存在理由であると。したがってどの文化も大切にしなくてはならないということでございます。したがって多文化共生というのが結論になると。
 それから、先ほどこの脈絡におきまして日本のいわゆる和魂洋才についてこれはおかしいと言われたのはもっともそのとおりだと思います。実際あの時期におけるつまり明治期における和魂洋才の和魂というのはこの洋魂になってみせるという物すごい覚悟であります。すなわち洋才としてただに技術や枝葉のものを入れるというのではなくて、みずから相手のハートの中に入り込んで相手の持っているものも全て心の中に入れてみせるという物すごい、何といいますか取り入れることができる器量と、これが私は日本が非西洋圏で唯一この欧米の文明をトータルに入れ切ってかつそれを批判することができる地平に立つことができた、そういう姿勢であるという意味におきまして私はその和魂を実は洋魂にしてまでこの国を西洋と相並ぶものにするというその覚悟が明治時代の人々にあったというふうに思うのです。
 ちなみにこうしたものが文章として一番明確なのが福沢諭吉ですけれども、あの方の「文明論之概略」というのがありますがこの文明がくせ者です。私どもはこの「文明論之概略」をお読みになると西洋の文明を目的にすることと明確に書いているわけであります。西洋の文明を超えるために彼はそれを言ったわけです。そしてじゃあその文明とは何ぞやと言えばヨーロッパの文明ですから、しかしこれは本来の文明の意味ではありません。あやにして明らかなることが文明であるということで我々は東洋的な文明の価値を取り戻そうというようなことを学問の柱にしている人がいます。きょうは県立大学に対する御批判が出ましたけれども、文化芸術大学の横山俊夫先生がそうであります。ヨーロッパの文明批判を東洋の文明の観点からなさっている方であります。
 私自身は、先生がおっしゃるように文明の基礎には文化があると、そのとおりであります。しからばその文化と文明との関係はどうなるかといいますとつまり文化がいかにして文明になるかということは問われなければなりません。我々が持っている文化が憧れられてそれが我々と異なる文化の人に取り入れられるとします。そうすると文化はいわば遠心力を持ちそれなりの普遍性を持ちますから私はそれが文明であるというふうに考えております。
 つまり、例えばローマ文明というのがありますがもともとローマ人が持っているローマ字とキリスト教とローマ法、一つの文化でしかありません。これは便利だから周りの人が取り入れるとローマが文明になります。中国人の漢人の文化でしかない漢字、律令、儒教、これが便利だからとすごいからってみんなが取り入れると。そうするとこれは中国文明になります。ですからそれぞれの国の価値観なり生活様式でしかないものが広がると、それが文明になると。したがって今我々は英語というよりも日本語の国際化が本来の日本の文化の称揚になるということに相なります。
 ですから私はこれは私自身の定義でありますけれども、文化は生活様式、これは学問的定義であります。文明というのは憧れられて広まる文化だと、そういう今我々は地平に立っているということで日本の文化に十分にその自信を持つべきだと。なぜかというとここには東西両様の全ての文化の蓄積を自家薬籠中にしているという形での文化の形があるからだということであります。
 ちなみに、先ほどのゾロアスター教についてでもありますがあれは神様がアフラ・マズダー、それからミトラと二つの神様がいます。アフラ・マズダーはやがて阿修羅になりました。それからミトラという神様はマイトレーヤというサンスクリット語になりましてやがて漢字で弥勒になりました。そして弥勒は弥勒菩薩として日本ではやがて弥勒浄土、いわゆる兜率天のところに行く、そういう場面としてゾロアスター教は平和の宗教になって入ってきたのであります。そこがニーチェと違うところです。ですからゾロアスター教も実は七世紀、八世紀の間に日本には入ってきていたと。ヨーロッパに入ったのはせいぜい十九世紀でありますからはるかに我々のほうが進んでいたというわけであります。そも文化についていろいろと教わりましてありがとうございました。
 他の御質問につきましては、関係部局長から御答弁を申し上げます。
○議長(渥美泰一君) 渡邉文化・観光部長。
       (文化・観光部長 渡邉眞一郎君登壇)
○文化・観光部長(渡邉眞一郎君) 知事の政治姿勢についてのうち、人づくりと有識者会議についてお答えいたします。
 本県の目指す人づくりは、霊峰富士の姿のように気品をたたえ調和した人格を持ち豊かな富を創出する有徳の人づくりであり、本年三月に策定した教育に関する大綱におきましてもこうした考えを本県の教育の基本理念として明確に位置づけたところであります。有徳の人づくりには学校教育、家庭教育が重要な要素でありますが、地域の子供は地域の大人が育てるという決意を持って地域社会の大人の誰もが子供の見習うべき先生であることを自覚し地域ぐるみ、社会総がかりで子供を育てることが重要であります。
 このため、総合教育会議の協議に先立ち教育の政治的中立性を担保し社会全体の幅広い御意見をいただく場として、平成二十七年度に地域自立のための人づくり・学校づくり実践委員会を設置いたしました。この委員には経済、スポーツ、芸術、農林水産、教育、福祉などさまざまな分野の有識者の皆様をお願いしております。実践委員会では高い見識と豊富な経験に裏打ちされた具体的で説得力のある御意見、御提言を数多くいただき、これまでにグローバル人材育成基金の創設や地域スポーツクラブの設立、しずおか寺子屋による学習支援など本県のよりよい教育の実現に向けた新しい取り組みが行われてきております。
 このように、実践委員会を初めとする有識者会議は各界の専門的な立場からさまざまな観点による御提案をいただき、行政だけでなく社会の幅広い意見を反映させることにより県政推進に大きく寄与しているものと考えております。
 今後とも、県政の課題に対して有識者会議からさまざまな御意見、御提言をいただき効果的な施策の企画立案等に生かすことにより、県民本位の施策を実現し社会総がかりで富国有徳の美しい“ふじのくに”づくりを進めてまいります。
 次に、文化行政についてのうち、SPACによる舞台芸術についてであります。
 SPACは、本県を拠点として舞台芸術の創作及び公演活動を行い世界に通用する質の高い作品の鑑賞機会を県民の皆様に提供するとともに、舞台芸術の創造を通じて音楽、文学、美術などのさまざまな芸術文化活動に刺激を与え本県の芸術文化の発展を牽引する存在であります。これまで約二十年間にSPACは国の内外におきまして約二千六百公演を行ってまいりました。また宮城芸術総監督は劇場は学びの場であるとの考えのもと延べ十四万人を超える県内の中高生に無料で演劇鑑賞の機会を提供しており、参加した学校からは生徒の感性を高める非常によい機会であるとの声を数多くいただいております。このほかSPACの劇団員を県内の小中学校や高校に派遣して発声方法や身体の使い方を指導するなど公演以外の活動にも積極的に取り組んでおります。
 昨年は、フランスで開催された世界最高峰の演劇の祭典、アヴィニョン演劇祭におきましてアジアの劇団として初めてオープニングを飾り満員の観客から大喝采を博したところであります。本年度はSPACの実施するふじのくにせかい演劇祭が文化庁の国際文化芸術発信拠点形成事業に採択されたほか、日仏友好百六十周年を記念してパリで開催されるジャポニスム二〇一八の公式企画に選定されるなど国の内外から高く評価されているところであります。
 県といたしましては、世界クラスの創造活動を行い本県の文化力の向上に寄与するSPACの活動を引き続き支援するとともにグランシップの運営、子ども芸術大学、ふじのくに芸術祭など幅広い分野の取り組みを進めることで県民の皆様の自由な文化活動を育むための環境を整え、県内のあらゆる地域でいつでもどこでも多彩な魅力的な文化に出会うことができるふじのくに芸術回廊の実現を目指してまいります。以上であります。
○議長(渥美泰一君) 木苗教育長。
       (教育長 木苗直秀君登壇)
○教育長(木苗直秀君) 教育行政についてのうち、読書のススメについてお答えいたします。
 議員御指摘のとおり、人は言葉や文字によって物事を理解し思考し、それにより知性を高めていくことから語彙力を養う読書は大変重要であると考えております。私も常に傍らに本を置き本を読むことで新たな知識と出会い、ものの考え方あるいはものの見方を学び、心を豊かにする経験を数多くしてきましたことから現在教育に携わる者として静岡県の子供たちにもさまざまな本に積極的に出会ってほしいと願っております。
 県教育委員会では、生涯を通じて読書に親しむ習慣を構築する読書県しずおかの実現を目指しております。特に幼少期における習慣づけは極めて大切であり本県では保育園、幼稚園などでの本の読み聞かせ、また保護者と一緒に読書を楽しむ親子読書の取り組みを進めているほか大部分の学校において朝読書を実施しております。各学校では国語科の授業を中心に読書を通して得た知識や深めた考えを言葉で仲間に伝えたり文章で書きあらわしたりする学習活動が多く行われており、教員はそれらを丁寧に点検し評価しております。
 今後とも、読書の大切さやすばらしさを子供たちに伝えるとともに読書県しずおかとして読書活動を推進するための環境整備をさらに進めてまいります。
 次に、早期英語教育についてであります。
 教養を高めるためには人の話を聞き、自分で考え、そして本を読むことが大切でありそれらは日本語を基礎としてなされるものであります。学校では子供たちが国語や社会の授業などにおいて古典や文学作品、現代小説、歴史書などに接し日本の言語文化や日本語の美しさを学んでおり、こうした学習は自国の伝統や文化を理解する上で極めて重要であります。
 二〇二〇年度から始まる外国語活動は、単に言語力を身につけるだけではなく世界のさまざまな国の言語や文化に対する理解を深めコミュニケーションを図ろうとする態度を養うことを目標としております。子供たちにはより多くの国の人々と交流してほしいと考えております。そのためには日本の歴史や文化、伝統を学びふるさとを誇りに思う気持ちを醸成した上で他国の文化や伝統についても学習することが真の英語力やコミュニケーション力につながると考えております。
 本県の教育の基本目標は有徳の人の育成であります。すなわち個人として自立し人とのかかわり合いを大切にしながらよりよい社会づくりに参画し行動する人であります。
 議員御指摘のとおり、子供たちには日本の伝統や文化を大切にする気持ちを育みながら英語教育を効果的に推進し有徳の人として世界で積極的にコミュニケーションがとれる日本人を育てたいと考えております。以上であります。
○議長(渥美泰一君) 筋警察本部長。
       (警察本部長 筋 伊知朗君登壇)
○警察本部長(筋 伊知朗君) 県警察の働き方改革についてお答えいたします。
 まず、働き方改革に対する私の所見についてであります。
 県警察では、突発的に発生する事件・事故に的確に対応するため夜間・休日においても一定の体制を確保していますが、さらに重大凶悪事件あるいは自然災害等の大規模な事案が発生した場合には勤務時間外の職員を招集するなどして公共の安全と秩序の維持に当たっているところであります。県警察においてはこのように限りある人員や体制の中、安全・安心に対する県民の期待に応えていくよう努めておりますが、それとともに働き方改革を実現していくことも組織を運営する上での大切な課題であると認識しています。
 次に、県警察の働き方改革への対応についてであります。
 県警察では、平成二十八年に、次世代育成支援法及び女性活躍推進法に基づく特定事業主行動計画として策定した静岡県警察みらい創造計画に基づき、職員の意識改革、業務の合理化、効率化の推進、休暇の取得促進、余暇を利用した自己啓発への支援等、多岐にわたる取り組みを推進しているところであります。
 業務の合理化、効率化の推進事例として、例えば警察署で大きな業務負担となっていた被留置者の護送業務を警察本部において一括で行う運用を平成二十九年から開始しました。また業務の合理化、効率化には情報システムの高度化が不可欠でありますことから既存のシステムの統合、改修や新規開発を進め、効率的な業務の推進を図っているところであります。
 県警察といたしましては、職員が最大限に能力を発揮することのできる魅力ある組織を実現するための取り組みを引き続き推進し県民の皆様の期待と信頼に応えてまいります。以上であります。
○議長(渥美泰一君) これで吉川雄二君の質問は終わりました。(拍手)
 以上で、質疑及び一般質問を終わります。

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