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本会議会議録

質問文書

開催別知事提案議員別代表質問一般質問検索用



平成20年9月静岡県議会定例会 質問


質問者:

吉川 雄二 議員

質問分類

一般質問

質問日:

10/01/2008

会派名:

自由民主党県議団


質疑・質問事項:

1 新公共経営について                        
 (1) 業務棚卸表と政策評価                      
 (2) 業績、 成果による統制                      
  ア 数値目標の客観性                       
  イ 公的活動の担い手                       
 (3) 本県の公的部門における市場化改革                
  ア 小泉改革による社会的コストと格差社会             
  イ 公的部門の市場化改革の是非                  
  ウ 事業の必要性の検証                      
 (4) 公的部門の膨張とその禍因                    
  ア 顧客としての県民                       
  イ 選挙における公的部門の膨張                  
  ウ 公的部門の膨張を押しとどめる日本人の精神運動         
  エ 知事の志                           
2 我が国の伝統文化を尊重し、 祖国愛をはぐくむ教育について      
 (1) 静岡高等学校校歌                        
 (2) 昭和二十四年文部事務次官通達                  
 (3) 学校行事における地域の慰霊祭への参加、 靖国神社、 戦跡等の訪問
 (4) 伝統文化を尊重し、 愛国心を涵養する教育の具体策



    ○副議長 (込山正秀君)  これで中田次城君の質問は終わりました。
     次に、 五十七番 吉川雄二君。
            (五十七番 吉川雄二君登壇 拍手)
    ○五十七番 (吉川雄二君)  議員諸兄、 そして頭のよい県庁の自治労の諸君、 まずもって冒頭聞いていただきたい。
     しょせん万事人間のやること、 天が下に驚くことなしと平素決め込んでいた私が本当に驚いたことがあった。 何と本県選出の民主党の某代議士が、 新幹線のグリーン車、 いわゆる一等車に乗っていたのであります。
     額に汗して働く労働者の組合の支援によって当選した代議士がグリーン車に乗るとは、 これを天下の奇観と言わず何と言う。 額に汗して働く労働者はほとんどがグリーン車に乗ることも知らない。 こんな常識もわからずグリーン車のソファーに踏ん反り返っているこの代議士の厚顔無恥、 既得権にすがって既得権打破とはよく言った。 年間三千万円からの所得を得ておいて、 格差是正を叫ぶこの政治家の偽善、 これを天下の奇観と言わず何と言う。 いつから日本人は、 おかしなことをおかしいと気づかなくなったのか。 頼むからポーズだけでも庶民と二等車で行ってくれ。 そうすれば民主党も政権が取れる。 輓近、 私吉川心底驚いたことを披瀝申し上げ質問に入ります。
     初めは、 本県の新公共経営について数点お伺いをいたします。
     まずは業務棚卸表と政策評価についてであります。
     従来、 自治体における政策評価あるいはマネジメントの対象は、 必然として予算、 さらには組織とみなされ、 ひっきょうそこにおける管理者の責務はパフォーマンスを評価するところの予算管理にあったのであります。 確かにインプットにおけるマネジメントも必要にして不可欠であることは言をまたないにしても、 直接成果に張り合わされているのはあくまでも行政活動であります。 議員諸兄御承知のとおり、 かかる観点に着目したのが本県の業務棚卸表であります。 アウトカムを主体として、 これにより影響を及ぼす客体を行政活動の単位としてとらえ、 しからしめるところその質の向上に向けてのマネジメントを合理的に遂行する。 かかる目的をもってマネジメントの単位を設定したのであります。
     したがって、 本県の業務棚卸表は評価の仕組みではなく、 あくまでもマネジメントの仕組みなのであります。 政策マネジメントの一環として政策評価を行うにおいては、 その効果を検証するための評価が必然として求められているのであります。 アウトカム指標を準用しての成果測定をもって生産性の向上を検証するにしても、 そこにはさまざまな制約があることは論をまちません。
     そこでまずもって、 かかる効果を検証するための評価の手だてを知事にお伺いするものであります。
     次は、 業績、 成果による統制についてであります。
     時は、 春は三月、 梅花馥郁として香り立つ弥生のころ、 ここは御存じ東京拘置所、 人呼んでトウコウの独居房。 だれが呼んだか村田松蔵こと天切りの松が、 ノーパンシャブシャブで接待漬けになり、 あげくの果てお縄になった大蔵省のキャリアを前に説教を垂れる。 「今の世の中何をさておき、 てめえの身が大事。 次が家族で、 その次が他人だ。 したっけ昔の人間、 とりわけお天道様から世の中を預かる役人は、 その順序が逆さまだった。 一等大事なものは天下の御政道、 まずは世のため人のためよ。 その次が家族で、 てめえの身なんぞは鴻毛の軽きぐれえにしか思わなかった。 本郷三丁目赤門出身の役人がこのざまじゃ陛下にすまねえ。」
     事ほどさよう、 大東亜戦争までの我が国の官僚は、 大君の命かしこむところの天皇の官僚であり、 君民一体の国家を保持するにおいて、 そこには厳然として尽くすべき国家という所在があったのであります。 しかしながら今日そのたがも外れ、 官僚、 いわゆる行政担当者の行動原理もまた公的部門膨張の禍因の一つに成りおおせているのであります。
     本県の新公共経営の特徴の一つに業績成果による統制があります。 いわゆる数値目標の設定とその行政評価であります。 ここにおける問題点を言挙げするなら、 それは公共サービスあるいは財の供給主体である行政担当者みずからが、 日和見主義の陥穽に落ち、 そのよるところ人事考査面における得点獲得の最大化、 あるいはみずからを取り巻く社会環境から生じる批判や不平の最小化など、 みずからの効用の極大化を図るという合理的行動原理から容易に走できないことであります。
     知事においてもしかりであり、 政治家が至当にして有する心性として当選に拘泥する蓋然性を放てきできないのであります。 それゆえかかる行政担当者の行動原理のよるところ、 県民あるいは議会との情報の非対称性をもって、 数値目標を主観的かつ恣意的に低く抑え込むであろう懸念が払拭できないのであります。
     したがって、 本県行政を十の分野に分けて設定した県民暮らし満足度日本一を達成するための数値目標は、 客観性に乏しく極めて独善的と思うが、 知事の御所見をお伺いするものであります。
     さらに、 公的活動の成果の帰着するところ、 それは行政活動のみにあるのではなく、 社会というフィールドでより効果的に活動する担い手の出現によって、 より高い成果が顕現されるのであります。 本県の新公共経営にはかかる視点が欠如していると思うが、 知事の御所見をお伺いするものであります。
     次は、 本県の公的部門における市場化改革であります。
     現下における本県の市場化改革は、 指定管理者制度、 PFI、 独立行政法人、 さらには民間委託とその経営主体は極めて多様化の方向にあり、 その理念の帰着するところそれはコストの削減であり、 及んで顧客である住民へのサービスの質を向上せしめることであります。 しかしながら現下において市場化改革によるコストの削減は、 市場における生産要素である労働に多分に負うものであり、 かかる労働における雇用の実態は、 そのほとんどがフリーターや派遣労働者といったいわゆる非正規社員によって占められているのであります。
     小泉改革は、 従前安定した生産活動を可能ならしめてきた労働資本あるいは資源といった生産要素を市場化し、 しからしめるところ利潤の機会をかかる生産要素の流動化に求めたのであります。 かくして労働市場の流動化は、 フリーターあるいは派遣労働者をできせしめ、 その雇用の形態がおおよそ若年層に比重する中、 ワーキングプアなるまことにもって聞くにたえない造語のよるところ、 我が国をして激甚なる格差社会に落とし込めたのであります。
     九月十日の産経新聞は、 「懐も心も元気なし」 との見出しをもって、 国民生活基礎調査結果を発表する中、 「生活が苦しい」 と実感している世帯が過去最多の五七%に上ると報じたのであります。 今日、 生活保護世帯数は本県総世帯数に匹敵する実に百七万世帯、 年間所得が二百万円以下の人は一千万人をようよう超えているのであります。 惨たんたるかな今日、 格差と不景気の森をとぼとぼと行く日本人の背中に貧乏神が巣くったのであります。
     さて知事、 御承知とは思うが、 私は平成十三年より本会議の質問において一貫して小泉改革に批判の矢を放ってきたのであります。 私が数次にわたり質問申し上げたそのゆえんは、 将来必ずや指摘されるであろう小泉改革の過誤を渦中において指摘しておくことが、 同時代を生きた地方議員の後世におけるアリバイ証明になると思ったからであります。
     さらに、 このゆえんのもう一つは、 冷戦構造の解体以来、 保守派が論難する論敵は既にして戦後左翼ではなく、 それは市場原理を錦旗とするまさにグローバリズムに取ってかわったのであります。 かかる一事に対し常に自覚的でなければならないという思いからであります。
     知事は小泉改革のよるところ、 市場原理の帰結としての本県の格差社会、 さらには社会的コストの増加をどのように見通されておられるのかお伺いをするものであります。
     さらに、 本県公的部門の市場化によるコストの削減は、 官民格差によるところの低賃金、 あるいは労働強化といった搾取労働の成果にほかならず、 かかる労働実態を看取するとき、 本県の公的部門の市場化を真に是とするか、 知事にお伺いをするものであります。
     床屋のおやじが怒っている。 「この世に労働者の天国を築くと言った左翼の残党は何をしている、 日和ったか。 今じゃ労働者の三人に一人はボーナスがない。 『蟹工船』 で純粋無垢な若者をプロパガンダする前にやることがあるだろう。 もっとも今じゃ連中の信奉する主義は権威主義、 官僚主義の別称だが。」 これには私も思わず笑ってしまいました。
     さらに、 公的部門の市場化を推進するなら、 組織が求める能力もおのずから変容を来すはまことにもって必然なのであります。 かかる一事を勘案するなら、 自治体の職員が本然有すべき施策作成能力、 職務遂行能力、 問題解決能力及んで委託事業者に対するチェック能力等の低下を来す懸念が大いに憂慮されるのであります。 さらに過般の耐震偽装事件を看取するとき、 その禍因は本然行政がその責任において遂行すべき業務を官から民へのスローガンの扇動するところ安易に民間にゆだね、 もってその管理を放てきしたことに起因するのであります。
     現下においてかかる市場化に伏在するその要因を考慮するなら、 少なくとも事業の継続先にありきの市場化改革は、 行政の怠惰以外の何物でもないのであります。 官か民かのその優位性の検証は当然としても、 むしろ現今論ずべきは官民双方に立脚しての事業の必要性の検証であり、 廃止すべき事業は廃止するプロセスの確立にあると思うが、 知事の御所見をお伺いするものであります。
     なお、 蛇足ながら耐震偽装事件は国民は怒っておりませんでした。 しかしながらなぜか世論は怒っておりました。 それは世論はマスコミだからであります。 マスコミが怒ったふりをすれば金になるからであります。 居酒屋のおやじが本当に怒って言った。 「昔軍隊、 今マスコミ。 この国は憲法枕にマスコミと討ち死にだ」
     次は、 公的部門の膨張とその禍因についてであります。
     一九八〇年代初頭、 ミルトン・フリードマンらは新自由主義思想に依拠する中、 公的部門膨張のよらしめるところ政府の失敗論を展開するのであります。 政府の失敗とは、 とりもなおさず政治の失敗であり、 ひっきょう我が国においては戦後民主政治の失敗にほかならないのであります。 牽強付会のそしりはいささかは留保するとしても、 それが民主主義を曲解した戦後民主教育の文脈上にあることは既にして明白なのであります。
     戦後我々日本人は、 かつては善なる価値であった滅私奉公の精神に内包された公の観念を、 戦後民主教育によって悪しきものとして否定される中、 これを一蹴したのであります。 ひっきょう私が肥大化し、 国家という統一体の意思である公の観念から限りなく乖離してしまったのであります。
     政策の担当者である官僚あるいは政治家が、 公共の利益の観念や国家観を喪失し、 自己の利益の極大化を図る行動をとれば、 必然として財政危機や政府部門は膨張を来し、 財政赤字が慢性化するはまことにもって自明なのであります。 例えば政治家のとる利己的かつ合理的な行動に得票の最大化があります。 すなわち当選を第一義とする余り、 予算の拡大には拘泥するも支出の抑制には無頓着であるという政治家の心情の露呈するところ、 有権者に対し受益の話はするが負担の話はしないというかかる候補者の欺瞞的行動が公的部門膨張を惹起したのであります。
    床屋のおやじが嘆いておりました。 「選挙、 ありゃあ候補者の人格、 識見は関係ねえ。 あるのは一人でも多くの人間に頼むこと。 ただそれだけだ。 もしもう一つあるとすりゃあマスコミのうそ八百だ。 ニュースステーションの古館の話を聞いていりゃあ、 あすの天気が悪いのも自民党のせいだ。 ところで自称選挙の神様小沢のイッチャンが、 次の衆議院選挙に向け候補者に歩け歩けとハッパをかけていた。 小沢は何か勘違いしているんじゃねえのかい。 選挙が仕事だと思っている。 国家をしょって立っているんだ。 政治屋じゃあまだしも、 それじゃ選挙屋だ。 国民がたまらねえ。 まあもっとも選挙が就職活動なら、 さしずめ支援者は就活応援隊てえとこかい。 傍聴席見りゃ、 きょうもあんたの就活応援隊が大勢来ているじゃねえかい。」 床屋のおやじさん、 悪い冗談はよしてください。 候補者は全員自分だけは違うと思っております。
     さらに有権者においてもしかりであります。 新公共経営は、 有権者である県民を公共サービスを享受する顧客と位置づけ、 その満足度に重きを置いているのであります。 かかる顧客志向は、 県民をして主権者としての責任意識を希釈せしめ、 及んで個人主義の陥穽に落ちるところ、 共同体意識の希薄化が現出するはまことにもって必至なのであります。
     知事は、 かかる新公共経営にはらむ危険性をどのように見通されておられるのかお伺いをするものであります。
     いずれにせよ、 民意必ずしも正しからずという民主主義の大前提をいとも簡単に足げにし、 支持率や民意に拘泥して一喜一憂するこの国の政治はやはりどこかおかしい。 政治家としての知事もかかる文脈上にあるのだ。 新公共経営などしょせん知事みずからがまいた種をみずから刈り取っているようなもの。 選挙による公的部門の膨張に対して、 万が一、 いや千に一あるかもしれない五選を控えての知事の御所見をお伺いするものであります。
     新公共経営の前提にあるもの、 それは財政赤字の禍因である公的部門の膨張であります。 これを引き受け是認しているところに新公共経営の限界があるのであります。 新自由主義に依拠する新公共経営は、 公的部門の膨張によるところの財政難に対処する仕組みであり、 及んでその対処の帰結するところの成果に重きを置く手だてであります。 ひっきょうそこには公的部門の膨張にあらがい、 これをいかに縮退せしめるかの議論が欠如しているのであります。 いや、 むしろあえてこれを忌避しているというところに、 私は新自由主義思想の文脈上にある行政担当者の根源的な悪弊を看取するのであります。
     我が国固有の行政文化や伝統、 さらには文化と不可分な歴史的経緯としての社会構造に等閑を付し、 これを一顧だにしない新自由主義の思潮からさおを抜き、 公的部門の膨張に歯どめをかけることこそが、 まさに今日我が国の喫緊の要務なのであります。 そしてそれには自己の利益の極大化を企て、 すべてを金銭的利益のタームに解消するといった諸個人の合理的な行動を制御するための社会的、 倫理的枠組みを構築することであり、 及んで自由の相対としての秩序あるいは規範意識を覚せいすることであります。 そしてこれらは、 確たる国家観に張り合わされた公の精神、 さらには我が国固有の道義観に裏づけられた伝統文化になべて収れんされるのであります。
     自由な個人の社会活動を担保するのは、 人と人との紐帯としての凝集した組織であり、 安定した社会であります。 かかる一事を確然として留保するなら、 時として個人の利益や成果に比して、 社会という共同体の安定がより優先されることもあると構えることであります。 そしてこれは個人の生命よりも全体の生命を大事とする構えに通底しているのであります。
     現今まさに公的部門の膨張を押しとどめるその方途は、 かかる我々日本人の精神運動にあると思うが、 知事の御所見をお伺いするものであります。
     かつて知事も口ずさんだであろう第六学年尋常小学校唱歌、 児島高徳に出てくる斉の宰相・范蠡は、 職を辞すに当たり、 「久しく尊名を受くるは不祥なり」 と言った。 長きにわたり我が名を広く世に知られるはかえって不吉なことだ。 むしろ路傍の草花にも似て、 名もなく生きるほうがよいと言ったのであります。 人の世は万古不変、 無限な空間と時間の交わるところ、 有限な生を営む人間はすべからく去る以外に道はないのであります。
     されど知事、 現今石川県政を俯瞰するに、 その創業はいまだ道半ばであります。 県民暮らし満足度日本一の気概まさによしであります。 本県行政の圧巻である新公共経営のよるところ、 しかとこれを発揚できるとお思いなら、 その蕩揺することなき確固不抜の信念をもって、 引き続きその任に当たるべきと思うが、 知事のその志はいかにを問うものであります。
     蛇足ながら 「為さざると遅疑するとは指揮官の最も戒むべきことなり」。 昭和十三年制定の軍令陸第十九号作戦要務令にある。
     次は教育行政についてであります。
     我が国の伝統文化を尊重し、 祖国愛、 郷土愛をはぐくむ教育についてであります。
     静岡県立静岡高等学校の同窓の議員諸兄、 貴校の校歌を御存じか。 その二番 「至誠を色に表せる唐紅の旗幟、 義勇奉公の四つの文字掲げて共に進むべし」。 そしてその四番は 「御国の柱、 礎となりし祖先の後継ぎて、 大現神天皇の御稜威を四方に輝かせ」 であります。 これを今日インターネットで検索するなら、 「歌詞の問題から現在では二番以降が歌われることがなく、 行事等で斉唱する場合は一番を二回繰り返す」 とある。
     戦後既に六十有余年、 本県の教育はかかる愚行を何ゆえにまた看過するのか。 私には到底理解できないのであります。 現下においてますますしょうけつを極める教育の崩壊のよるところ、 それが 「義勇奉公」 の四つの文字を亡失したことに、 さらには皇国の御稜を八紘に及ぼさんと大いに国威を発揚した祖先の歴史を否定したことに、 これらのことに起因するは今日既にして論をまたないのであります。 かかる厳たる一事を一顧だにしないとしたなら、 それはその人間の知的怠惰以外の何ものでもないのであります。
     教育長、 静高はかつてあなたが学校長として奉職した学校であります。 在職当時の未履修問題などはかかる一事に比せばまさに愚にもつかない些事末節、 事は日本人としての精神の問題であります。 その法的論拠にしても神道指令は昭和二十七年の対日講和条約をもって失効しているのであります。
     そこで、 何ゆえ公の場で今もって二番以下を歌わせないのか。 歌わせて初めて国家を疑う能力もはぐくまれると思うが、 教育長のお考えをお伺いするものであります。
     蛇足ながら、 昨年未履修問題で殊のほか苦悩したと思われる教育長に、 サラ川よりぴったりくる川柳を一つ。 「未履修は世界史、 漢字、 愛国心」。
     戦後既にして三世代にわたる我が国の教育の荒廃は、 民草に下賜されたる教育勅語を拳々服膺して教育を受けた世代が、 おおむね社会の一線から退く昭和六十年以降においてまことにもって度しがたい惨状を呈するのであります。 さらに平成の御代に入り、 かかる教育の荒廃のよるところ、 人間力の欠如は政治家、 官僚も含め国民の劣化を惹起せしめ、 社会のモラル一瀉千里して瓦解を生じるのであります。 これと軌を一にして国家の行く末に閉塞感が醸成され、 まさにここに国民的退嬰を招来せしめたのであります。
     かかる教育の荒廃の禍因が、 平和、 民主、 平等といった戦後的価値を敷衍するところの戦後民主教育、 あるいはその後の東京裁判史観の虚構と欺瞞を内包した左翼偏向教育にあったことは、 今日既にして論をまたないのであります。
     神武天皇八紘を掩いて宇となしてより二千六百有余年、 我ら久米の子が連綿する歴史の中で醸成してきた我が国固有の道義観、 さらには伝統文化、 及んで歴史の正統を前近代の誤謬として一蹴する中、 平和、 民主、 平等といった、 本来が政治の原理であって到底教育の原理たり得ない戦勝国の空疎な観念を、 さも普遍的な真理として押しつけたのであります。 自国の歴史を歪曲し、 あまつさえその正当性を否定するなら、 教育の自壊するは必然にして明白なのであります。
     何ゆえかと申しますと、 教育のよって立つ基盤は、 過去をおいてほかにないからであります。 田中美知太郎の 「言葉は必ず過去からやってくる」 の言にまつまでもなく、 教育もまた過去からやってくるのであります。 それゆえ教育は連続する歴史に担保されており、 徳育のみならず知育もなべて連続する歴史の英知に張り合わされているのであります。
     それゆえ現下において荒廃のきわみに達した観のある教育を回復せしめるその方途といえば、 それは自国の伝統文化に対する理解を深め、 進んで自国の歴史を矜持とする精神を涵養することであります。 自国の歴史に誇りを持てぬ者が、 何ゆえ確たる祖国愛を持すことができるのでありましょうか。 それゆえ本県教育現場は、 本年三月に告示された新学習指導要領の大眼目である伝統文化を尊重する教育を、 より実効あるものにしていかなければならないのであります。
     よって、 かかる教育の実践についての私案を披瀝し、 その手だての可不可を教育長にお尋ね申し上げるものであります。
     まずその一つは、 学校教育の一環として地域の戦没者慰霊祭への小中学生の参加であります。 県内各地に建立されている忠魂碑は、 日清・日露の両戦役からさきの大東亜の御戦まで、 我が国の国難に殉じた諸英霊のみたまが祭祀されているのであります。 伝統を保持し、 これを保守するその意識の具体化が祖先崇拝のさまざまな祭祀であります。 まさに戦没者の慰霊鎮魂はかかる祭祀の一環をなすものであり、 この厳粛な営為に発する先人に対する感謝と崇敬の念が、 歴史の連続性を担保し、 しからしめるところ教育の対象者たる児童をして健全に育成せしめるのであります。
     同様な文脈において、 小学校六年時の修学旅行における靖国神社への訪問、 さらには遊就館への見学を提案するものであります。
    さて、 ここにおける法的根拠でありますが、 過般、 文科省において昭和二十四年に通達された 「学校が主催して靖国神社及び主として戦没者をまつった神社を訪問してはならない」 等の内容を包含した文部省事務次官通達は、 既に失効していると省議をもって確認したのであります。
     昭和二十七年四月、 我が国はその内実はともかくも、 対日講和条約をもって主権を回復したのであります。 これに伴い、 必然として神道指令も失効したのであってみれば、 戦後五十七年もの間、 しかも占領下の通達を有効としてきた文科省のその因循こそくぶりには驚きの念転じて心底怒りを覚えるのであります。 その後かかる経緯を踏まえ、 平沼赳夫衆議院議員が福田康夫首相に対し、 これに関する質問趣意書を提出し、 政府はこの答弁書において改めてその失効を確認してこれを閣議決定したのであります。
     そこで、 かかる閣議決定の内容を、 さらには文科省は本県教育委員会へこれをどのように説明をし、 また本県教育委員会はどのように市町村教育委員会にこれを知らしめたのかお伺いするものであります。
     さらには、 公立、 私立を問わず、 高等学校修学旅行時における、 例えば鹿児島県は知覧町にある特攻平和会館等への戦跡の見学であります。 戦後、 坂口安吾は 「若者の胸に殉国の情熱というものが存在し、 死にたくない本能と格闘しつつ、 至情に散った尊厳を敬い愛す心を我々日本人は忘れてはならないであろう。 我々愚かな人間も、 時にはかかる至高な姿に達し得るということ、 それを必死に愛し守ろうではないか」 と述べ、 悠久の大義に殉じた若者の至純に大いなる価値を見出しているのであります。
     二千六百年に連綿する我が国の歴史の一時代を切り取り、 これを過てるものとして封じ込める手だてにおいては、 歴史の連続性は担保できないのであります。 歴史をして我々の歴史と一人称で語ることによって、 我々は統一された私たち日本人を語り得るのであります。 かかる精神の運動なくして、 祖国愛の涵養などはしょせん蛙鳴の間に鶯声を聞くに等しく不可能なのであります。
     既述の私の提案について教育長の御所見をお伺いするとともに、 新教育基本法に盛られた伝統文化の尊重、 愛国心の涵養を、 教育現場において形骸化することなく、 いかに実効あらしめていくか、 その具体的な方途をお伺いするものであります。
     蛇足ながら結びに川柳を一つ。 「本会議よく寝た人ほど拍手する」。
     万雷の拍手をお願い申し上げて、 ひとまず質問を終わります。 (拍手)
    ○副議長 (込山正秀君)  石川知事。
            (知事 石川嘉延君登壇)
    ○知事 (石川嘉延君)  吉川議員にお答えをいたします。
     初めに、 新公共経営についてのうち、 本県の公的部門における市場化改革であります。
     小泉改革による社会的コストと格差社会についてでありますけれども、 経済の発展を促して社会に活力をもたらすためには、 意欲と能力のある者が挑戦し活躍できる環境が必要であります。 そしてまたこれを制約している条件をできるだけ排除していくということも非常に重要であります。 その意味で、 小泉内閣の行ったイメージとして規制緩和が非常に取りざたされておりますけれども、 これは既に橋本内閣あたりから始まってきてるわけでありまして、 あるいはそのちょっと前からもう既にその端緒がずっと見られてきております。
     そういう意味で、 私は規制緩和ということも必要なことであったし、 その面でそれを前進させたという意味では評価をしております。 規制緩和をした上で、 その結果公正な競争が実現して、 その結果、 業績や富の配分にある程度の偏りが生じてくるということも、 これは容認せざるを得ないと思います。
     問題は、 果たして公正な競争が担保されたかと。 これはいろんな意味で私は抜かりがあったというふうに思うのであります。 フリーターとか派遣の問題、 いろいろ取りざたされておりますけれども、 請負という名において、 脱法行為的な労働者の使い方があったというのはときどき摘発をされたり問題視されて、 その是正が図られるにようになってまいりましたけれども、 例えば労働者の労働の形態について規制緩和をするんであれば、 その緩和された新しいルールのもとで本当に公正が担保されるかということについて、 例えば労働基準局の監視体制の強化、 これを並行してやらなければ、 必ず世の中、 不心得な経営者、 事業者があらわれてくるということは、 昨今に限らず歴史を振り返ってみれば必ずそういう事態が発生してきているわけですから、 これを手を打っておくべきだったと思うんですね。
     そのためにこそ行政改革も必要で、 行政改革は何のためにやるかといったら、 部門間の配置転換をすると、 これが伴わなければいけないと思うんですけれども、 小泉内閣のときには振り返ってみると、 国家公務員は人は減少してないわけです。 部門間の再編成もほとんど行われてない。 ですから非常に偏った不十分な私は改革であったというふうに思うわけであります。
     中曽根民活が評価をされるのは、 あのときには国鉄、 電電公社、 それから専売公社、 三公社の民営化が行われました。 特にその中で国鉄の民営化の場合には、 国鉄労働者、 当時たしか二十八万人おったと思うんですけれども、 これを民営化によって二十万人に減らしたんです。 八万人をどうするか。 これをほうり投げれば、 これは大失業者の発生で大社会問題になるんですね。 これでは政権もつどころか日本経済もおかしくなる。 そういう中であのときには官民挙げて、 この八万人の労働者を受け入れたわけですね。
     私も国家公務員をやっていたときに、 その受け入れ窓口の仕事をしましたけれども、 当時定数が余りたくさんない自治省においても何人か受け入れをいたしました。 あわせて地方団体にも協力を要請するということで、 その仕事を担って、 各自治体でもそれぞれ職員の母体数に応じて受け入れ計画を立ててもらって、 公的部門で示された目標を達成したわけです。
     そういうようなことによって、 一種の旧国鉄職員にとってみると青天のへきれきというか、 思いもかけなかったような全く異なった事業分野に配置転換されたわけですね。 ある意味では有無を言わせず配置転換されたと。 これが実現したということは、 今度は国家公務員の、 国の行政組織ではなかったけれども国の設立した国有鉄道、 これの大配置転換をしたわけでありますから、 今度は国家公務員の部門間の非常にいびつな人員配置、 これに手をかけるだろうと、 その基盤ができたというふうに期待をしたんですけれども、 中曽根内閣ではそこまでできなかった。 後の内閣がこれを引き継いでやっていくかと思ったら、 もう一切そういうところに力を注ぐ内閣が出てきてないわけですね。
     今日、 小泉内閣はその後の安倍、 福田、 そして麻生内閣どうするか知りませんが、 福田内閣のもとで来年度に向けて概算要求の際に相当な公務員改革をするんじゃないかと、 安倍、 福田両内閣にまたがって公務員改革も大騒動して法律もつくって、 何か公務員改革に着手すると、 相当な部門間の配置転換もやるのかなと思ったら、 ふたをあけて見たら、 概算要求見てみたら行政部門の定員はプラスマイナス増要求なんですよね。 こんなていたらくになっておるわけであります。
     したがって、 小泉内閣だけでなくて、 歴代そういう状態なんですね。 そういう実態を見ますと、 非常に中途半端、 不十分で、 しかも行き過ぎを是正する、 あるいはそれを副作用を少なくするための手を打たないで、 改革と名のつく規制緩和をどんどんやっちまった。 そういうことだと思うんです。
     それからフリーターの問題なんかも、 何もフリーターというのは小泉内閣になってから出現したわけじゃありません。 そういう言葉はそのころはやったかもしれませんが、 実態はもっと前からそういう存在はたくさんあったわけですね。 それが小泉内閣のもとで顕著に浮き彫りになってきたということだと思うんですけれども、 このフリーターそのものは、 ある意味で社会が悪いという面と同時に、 そういう人たちが働き場所を求めておった実態に合わせてフリーターがどんどんどんどん定着していったという、 こういう現象も私は一方で感ずるわけです。
     そこで、 これは社会全体の雰囲気、 ムード、 あるいは家庭教育、 学校教育も含めてひところまで言われた、 働かざる者食うべからずというような貧しい時代の我々の勤労意欲、 これをきちんと持ち続けておるならば、 いつまでたっても単純労働でその日銭を稼いで、 とりあえずの入り用のお金さえあれば、 あとはどうでもいいやというような、 自分の人生一生をきちんと見通して人生設計をしながら、 ちゃんと自分の力を蓄えて一生責任ある社会人として生きていくという、 そういう法も何にもできていない人間が大量に発生しているということも一方であるわけですね。 そういうのを見て、 逆に今度は経済界がある意味ではそこにとも綱を投げてうまく活用したと。 悪用とは言いませんけど活用したと、 そういう実態があるんじゃないかと思うんですね。
     したがって、 規制緩和をするなりいろんな社会の生活水準の向上に伴って、 日本は今それぞれの個人個人の欲望とか希望とかを、 昔と比べると一昔二昔、 あるいはもっと前と比べると、 はるかに許容度が大きくなってるわけですね。 怠けて過ごそうと思えば極端に言ったら過ごせると、 そういうイメージができてるわけですね。 パラサイトシングルなんて言葉なんか、 もってのほかの現象だと思うんですけれども、 これが当たり前になってきているわけですよね。
     ですから、 そういう実態もよく踏まえながら、 私は政治が手を打たなければいけなかったと思うんですけれども、 それは全然無視して、 改革という名において規制緩和に走ったと。 これがある意味ではものすごい副作用をさらに増幅したということではないかというふうに思うんです。 できるだけこれに気がついて、 これからの政権がそういう面でも手当てをちゃんとしてもらいたいと思うんです。
     それから公正競争、 公取ですね。 公取の機能、 あるいは証券監視とか金融庁、 こういうところの機能をもっともっと拡充すべきだと思うんです。 社会的に認められるきちんとルールを守って商行為をしてるか、 経済行動してるか、 これは規制緩和すればするほど今度は厳しい監視が必要になってくるわけです。 そのために相当要員が要るわけです。 ですからそれに行政庁の中の部門別の再配置を大胆に行ってそれにこたえると。 それをちゃんとしないために、 毎年度毎年度の組織定数の国の要求を見ているとプラスになってくる。 これを今まで放置してきてるわけです。
     せめて静岡県でやっているような新公共経営に基づく定員管理をやってくれれば、 むしろ減らしながら増大する行政ニーズにこたえる、 そういう国家行政が行い得るわけですね。 それもいきなり首を切れば、 それは失業問題、 社会問題になりますから、 退職者が十出た場合に五しか補充しないということでやっていけば、 五年十年たっていくと一〇%、 二〇%の定数削減は容易にできるはずですね。 社会的な混乱もなく。 そういうことをきちんと国でもやるべきだと思うんです。
     なに、 静岡県が新公共経営やってる、 しゃらくさい、 なんていうような感じなんですよ、 国家公務員。 ただこれは人事交流の一つの成果だと思うんですけれども、 国の各省庁で時々、 おや、 何だ新公共経営取り入れてやっていそうだなと、 やりそうだなと思うようなことが時々見受けられるんですね。 よくよく見ると、 本県で新公共経営を体験してこれはすばらしいと思って帰った人間がそれぞれの部局でやってる。 (発言する者あり) いや、 本当です。 ただしそれは大変巨大な組織の一部署ですから、 せいぜい帰ったって筆頭の課長補佐か室長くらいしかなれませんから、 政府全体を動かすところまでいっていないんですけれども、 実はそういう現象が起こっているわけです。
     まあそういうことでございますので、 今後この新公共経営、 吉川議員のお話にありますように、 例えば目標の設定の仕方、 アウトカムが容易に達成できるような安易な目標を立てて、 一年たってみたらできたできたって、 にやつくんじゃないかと、 そういうお話でありますけれども、 これはですね、 これについて県民の皆さんの監視なりあるいは外部評価がなければ当然そういうことは起こり得ると思うんですけども、 そうはなってないわけですから、 我々はその目標の設定の仕方から県民の監視のもとにあり、 その成果についても県民の監視のもとにあると、 そういう感覚のもとでやっているわけです。 ぜひ決算審査なり何かで大いにこの目標の設定の仕方、 あるいは成果が本当にあなたたち言っているほどできているのという厳しい私は審査をお願いしたいと思うし、 またその審査をしやすいような、 監視をしやすいような目標の設定の仕方が新公共経営のみそであると思うんですね。 そういうことでよろしくお願いしたいと思います。
     それから、 公的部門膨張とその原因の関係で、 私の志いかんということでありますけれども、 私も四回も選挙をやってくれば、 こういうことをやったら世の中の受けがいいかどうかというのは考えないなんて言ったらうそになります。 当然考えます。
     しかし、 ただ私自身の志として、 ただそれだけに堕してはいけないと。 例えばあえて何て言うか、 批判を受けてもやるべきこととか言うべきことは言わなきゃいけない。 やるべきことについては、 批判なり反対が強ければ実現しないわけでありますから、 何とかしてこれを実現するように渾身の努力を傾ける、 そして多数派を形成して実現すると、 こういう考えでずっとやってまいりました。
     もちろん、 そういう過程で、 あいつは頑固だとか人の言うことを聞かないという批判があったかもしれませんけれども、 少なくとも自分がこうではないかと思ったことについて、 間違っているという感じが自分でする限りは、 君子ではありませんが豹変したつもりでありますし、 それから、 そうでなければだれが何と言おうとも何とかして多くの人に訴えて、 賛同を得て実現したいということでやってまいったことも事実であります。 なかなか思うとおりにならないことが多いので、 自分がこうやるべきではないか、 こうすべきではないかということの何割できているか、 まだそういう評価もいたしておりませんけれども、 そういう気概でやっておるところでございます。
     そういう意味で、 自分を縛る意味でも、 富国有徳なんていうのもそういう気持ちも込めて言ってるつもりであります。 県全体がそういう地域になりたいと、 そのためのさまざまな施策も必要であると。
     それから新公共経営は、 新自由主義の流れの市場原理主義とか、 けしからん流れの中にあるものじゃないかと、 こういうお話もありましたけれども、 実は新公共経営の導入に当たって、 私は県民満足度というそういう一つのキーワードと、 もう一つは行政の生産性の向上ということを説いてるわけです。
     行政の生産性というのは、 毎度申し上げるように効率の追求と、 もう一つは行政であればサービス水準の高度化ということですね。 内容をよくする。 県民のために、 県民の皆さんから、 ああよくやってくれたなと、 親切だなと、 県民の皆さんから評価されるような行政を実行すると、 この両方を含んでいるんですね。
     したがって、 当然アウトカム指標も相まって、 ひとりよがりにならないような仕掛けと、 それから今の生産性の向上というキーワードで、 そういう指向性を与えてきたつもりであります。 それがどこまで浸透したか、 これは県民の皆様の評価、 あるいは歴史の評価にゆだねるわけでありますけれども、 志としてはそういう新公共経営という手法が、 吉川議員の御心配、 御懸念の方向に走っていかないような、 何というか方向制御装置と言いましょうかね、 そういうものも踏み込んでこれを取り入れてやっているというつもりであります。 これもまた外部評価していただいて、 改めるべき点は改めていかなけりゃいけないと思いますが、 考え方としてはそういう発想に立ってやってきているところでございます。
     究極は、 私はこれまでの経験に照らしても、 静岡県庁の体質化をすると、 行政の生産性向上ということを追求するその考え方、 これが組織の体質になる。 そのための手法として、 今は新公共経営というやり方が一番有効だと思うんですけれども、 また時代状況の変化によってこれ、 不磨の大典ではありません。 未来永劫この手法がいいとは私も思いません。 状況に応じていろんな手法があっていいと思うんですけども、 ねらいは、 少なくとも行政は生産性の向上というのは、 これはあくまで追求すべき目標。 そのことによっていたずらな公的部門の膨張を抑えることができるわけですね。 これは生産性の向上。 生産性の向上を図ることによって、 有限の資源、 財源を最大限に県民の皆さんに提供できる、 こういうメカニズムをこれは生み出すもとになるという、 私は信念のもとに取り組んでいるわけでございます。
     まだ体質化するというところまでいってはいませんけれども、 そこまでの自信はありませんけれども、 ひょっしたらそういう部分にもう転がっていくんじゃないかなという期待も少し生まれてきた、 そういう段階だというふうに思っているわけでございます。
     その他の御質問については関係部長、 教育長から御答弁を申し上げます。
    ○副議長 (込山正秀君)  藤原総務部長。
            (総務部長 藤原通孝君登壇)
    ○総務部長 (藤原通孝君)  新公共経営についてのうち、 初めに業務棚卸表と政策評価についてお答えいたします。
     業務棚卸表は、 県の行う仕事の内容をすべて書き出し目的ごとに整理するとともに、 それぞれの業務によって達成することを目指す指標やそのための手段を明示いたしまして、 県の仕事をいわば見える化するものであります。 またこれは知事からも先ほど話が出ましたが、 毎年この業務棚卸表につきましては、 前年度までの成果についての評価を行いこれを公表し、 県議会の決算特別委員会にも提出させていただくとともに、 翌年度の業務に反映させるなど評価と改善を繰り返し、 業務の質を向上させるというPDCAサイクルの活用を図っております。
     今後とも業務棚卸表を活用した行政活動の評価を着実に行い、 効果的、 効率的な業務を執行することにより、 一層の行政の生産性向上に努めてまいりたいと考えております。
     次に、 本県の公的部門における市場化改革についてのうち、 まず公的部門の市場化改革の是非についてであります。
     本県では、 最適な実施主体を選び、 できる限り任せるということを基本原則としておりまして、 この原則のもと、 指定管理者制度や民間委託などによる民間能力の活用を積極的に進めております。 この結果、 指定管理者制度においては、 導入後の施設管理経費の削減のほか、 利用料金の値下げや多彩なイベントの開催などの利用者サービスの向上により、 多くの施設で利用者数が増加するなど、 利用者満足度の高い魅力ある施設の実現に役立っているものと認識をしております。
     また、 職員の給与や旅費の支給を行う総務事務や公用車の運転などの民間委託につきましては、 効率的な業務執行だけでなく、 民間に対する新たな業務の開放という側面も持っております。 このように、 公的部門に民間事業者の創意工夫やノウハウを活用することは、 コストの削減や県民サービスの質の向上を図るだけでなく、 民間の事業機会と雇用の創出を促すなどの役割も果たしているものと考えております。
     次に、 事業の必要性の検証についてであります。
     民間能力の活用を検討する場合も含め、 本県が実施するすべての事業につきましては、 業務棚卸表による行政評価を踏まえましてゼロベースからの見直しを毎年度行っており、 事業の継続を前提とせず、 行政サービスとしての必要性の有無から検証することとしております。
     その結果、 まず行政サービスとして必要があると判断された事業につきましては、 民間でできることは民間にゆだね、 行政が担う必要があるものは行政で行うということとしており、 官民それぞれが持つ能力や手法などを有効に活用することとしております。 また行政サービスとして提供する必要がないという判断に立った事業につきましては、 そのサービスに対する県民の需要を十分調査した上で、 需要のないものについては廃止することとしております。
     今後もこうしたプロセスに基づきすべての事業について必要性を検証し、 県民にとって必要なサービスについては、 最適な手法によって効果的、 効率的に提供してまいりたいと考えております。
    ○副議長 (込山正秀君)  山村企画部長。
            (企画部長 山村善敬君登壇)
    ○企画部長 (山村善敬君)  新公共経営についてのうち、 公的活動の担い手についてお答えいたします。  
     総合計画で目標として掲げる百六十六の指標は、 大半が県民と県との協働で目指す社会目標となっております。 総合計画に掲げる 「富国有徳 創知協働」 の基本理念のもと、 NPO、 企業、 市町村など多様な担い手となる多くの県民の皆様との協働により、 県民暮らし満足度日本一の実現に努めることを基本としております。
     次に、 公的部門の膨張とその禍因についてのうち、 まず顧客としての県民についてであります。
     本県では、 限られた財源と人員の中で県民暮らし満足度を最大限に高めるため、 民間企業のすぐれた経営手法を取り入れ、 行政分野の生産性向上を恒常的に追求する仕組みとして成果重視を初め、 顧客志向、 権限移譲、 民間能力の活用を重んじる新公共経営に積極的に取り組んできました。
     顧客志向が県民の主権者としての責任意識を希釈させるとの御指摘でありますが、 本県が進める新公共経営では住民を公共サービスの顧客としてとらえるとともに、 施策効果を最大化するため、 NPOや地域住民など県民の皆様と協働して地域づくりに取り組む姿勢が重要なポイントになっております。 地域づくりの担い手である県民の意識の涵養と、 積極的な参画に向けた環境づくりに今後とも取り組んでまいりたいと考えます。
     次に、 選挙における公的部門の膨張についてであります。
     内外ともに厳しい経済財政環境の中で一定の枠内で公的部門を賄っていくためには、 県民の皆様とともに創造性を発揮し、 知恵を出し合い、 協働していくという住民参画型の地域づくりを行い、 県民くらし満足度を高めていくことが今日特に大切であると考えます。 そのため時代趨勢を客観的に分析し、 大局的な見地に立って将来構想や基本計画を策定し、 県民の皆様に説明した上で御意見を伺うなど、 計画づくりの段階から参画いただき、 着実に推進していくことが重要であると考えております。
     次に、 公的部門の膨張を押しとどめる日本人の精神運動についてであります。
     一定の範囲で多様な行政ニーズにこたえていくためには、 民間の活力を活用した新公共経営の推進により、 公共サービスの質の向上と効率化を図りつつ対応していくことが大切であると考えております。 一方、 社会全体の規範意識の低下が課題となる中で、 総合計画では、 高い志や精神文化に支えられ、 豊かさを有意義に生かすことのできる有徳の志を兼ね備えた地域の実現を基本目標に掲げており、 現在、 意味ある人づくりや理想の学校教育の具現化の検討など、 本県独自の人づくりに力を注いでいるところであります。
     こうした未来を開く人づくりとともに、 社会経済全体の生産性向上策などに重点的に取り組み、 将来にわたって県民の皆様が物心両面に豊かさを享受できるような政策を展開しているところであります。
    ○副議長 (込山正秀君)  遠藤教育長。
            (教育長 遠藤亮平君登壇)
    ○教育長 (遠藤亮平君)  我が国の伝統文化を尊重し、 祖国愛をはぐくむ教育についてのうち、 初めに静岡高等学校校歌についてお答えいたします。
     静岡高等学校の校歌は、 天皇が現人神として神格化されていた時代であった大正年間に旧制静岡中学校校歌として制定されたものであり、 一番から四番までの歌詞が付されておりますが、 昭和二十一年に天皇がいわゆる人間宣言を行い、 天皇の神格をみずから否定したことを機に二番以降は歌わなくなり、 一番のみを繰り返して歌うようになりました。
     その後、 私が静岡高等学校に校長として在職しておりましたときに、 一番を繰り返し二回歌うのを改め、 行事等においては一番を一回だけ歌うことにし、 今に至っていると承知しております。 私自身、 四番までの歌詞を見たとき、 三番の歌詞は今の時代においても何の違和感もなく受け入れられるものであり、 歌われなくなったのは非常に残念な気がいたしましたが、 時代の変遷を考えたとき、 当時の方々の判断は適切であったと考えております。
     次に、 昭和二十四年文部事務次官通達についてであります。
     議員御指摘の閣議決定の内容に関しては、 文部科学省から本年七月に、 東京で開催された各都道府県・指定都市教育委員会を対象とした新教育課程中央説明会の特別活動部会において、 資料を用いてその経緯と見解について説明を受けました。 主な内容は、 昭和二十四年の文部事務次官通達のうち、 学校が主催して靖国神社や護国神社等を訪問することを禁じた一節については既に効力を失っていること、 学校における授業の一環として、 歴史や文化を学ぶことを目的に靖国神社等について訪問してもよいものと考えること等で資料に沿った内容の確認でありました。
     したがいまして、 県教育委員会といたしましては、 中央説明会で配付された資料を市町村教育委員会及び各学校へ送付したところであり、 今後靖国神社や護国神社訪問等に関する相談や問い合わせがあった場合には、 文部科学省の見解に基づいた対応をしてまいりたいと考えております。
     次に、 学校行事における地域の慰霊祭への参加、 靖国神社、 戦跡等の訪問についてであります。  
     まず、 地域の戦没者慰霊祭への小中学生の参加についてでありますが、 県内各地域で行われている戦没者慰霊祭はあくまでも地域行事であり、 参加については教育委員会が関与すべきものではなく家庭の判断にお任せすべきものと考えます。
     また、 修学旅行の研修先については、 各学校がその目的や児童・生徒の実態等に基づき、 学校教育の一環としてふさわしい場所をみずからが主体的に判断し決定すべきものと考えております。 そのような中、 沖縄、 広島、 長崎などにおいて歴史及び平和についての学習を実施している県立高校は多数あり、 議員御指摘の鹿児島県知覧町にある特攻平和会館を研修先に入れている高校もあると承知しております。
     次に、 伝統文化を尊重し愛国心を涵養する教育の具体策についてであります。
     中央教育審議会は答申の中で、 「我が国や郷土の伝統や文化を受けとめ、 そのよさを継承発展させるための教育を充実させることが必要であり、 みずからの国や郷土の伝統や文化についての理解を深め、 尊重する態度を身につけてこそ、 グローバル化社会の中で、 自分とは異なる文化や歴史に敬意を払い、 これらに立脚する人々と共存することができる。」 と述べております。
     この答申を踏まえ、 新学習指導要領には、 国語科での古典、 社会科での歴史学習、 音楽科での唱歌・和楽器、 美術科での我が国の美術文化、 保健体育科での武道の指導などの充実を図ることが盛り込まれました。
     県教育委員会といたしましては、 郷土愛こそが愛国心の原点であると考え、 各学校が新しい学習指導要領の趣旨を踏まえた授業を推進し、 総合的な学習の時間等においても、 自分たちの住む地域に目を向け、 郷土の発展に尽くした先人の働きや伝統的な行事等についての探求を通じて、 地域の伝統や文化についての理解と先人に対する畏敬の念を深めることによって、 我が国を愛する心情を育てていくよう今後とも支援してまいりたいと考えております。
    ○副議長 (込山正秀君)  これで吉川雄二君の質問は終わりました。
     以上で本日の質疑及び一般質問を終わります。
     次会の議事日程を申し上げます。 十月二日午前十時三十分会議を開き、 質疑及び一般質問を行います。
     本日はこれで散会します。

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