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委員会会議録

質問文書

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令和6年2月定例会総務委員会 質疑・質問
質疑・質問者:中沢 公彦 議員
質疑・質問日:03/08/2024
会派名:自民改革会議


○中沢委員
 それでは、年度末を迎えて総務委員会の説明員のうち60歳の節目を迎え現在の職を退かれる方がいらっしゃると伺っております。
 知事直轄組織では、山口武史デジタル戦略担当部長、野毛勉知事戦略局理事兼総務課長、経営管理部では、京極仁志経営管理部長、出納局では小野田裕之出納局長、金井いすず次長兼会計総務課長兼デジタル推進監、法月孝泰出納審査課長の6名でございます。
 まずもって、県行政の推進に多大な御尽力をされましたことに心から敬意と感謝を申し上げます。
 山口デジタル戦略担当部長は昭和61年4月の奉職以来38年間、野毛知事戦略局理事兼総務課長には昭和62年4月に奉職されて以来37年間、京極経営管理部長は平成元年4月に奉職されて35年間、小野田出納局長は昭和61年に奉職されて38年間、金井次長兼会計総務課長兼デジタル推進監は昭和57年4月から42年間、法月出納審査課長は昭和61年4月以来38年間とそれぞれ様々な職を経験されて今日に至っているということでございます。
 一昔前と違って60歳還暦と言ってもですね、大変若々しい時代となりました。人生100年時代とも言われる時代でございます。ぜひ皆さんにおかれましては、この後まだ長く続くであろう人生でどんなことをしてみたいとかこんな生活してみたいなとかこれまで務められてきた中で一番の思い出のお仕事、そもそもなぜこの業界を目指したのかをぜひ後輩やこれから社会に出る若者に向けたメッセージとして頂ければなと思います。

○山口デジタル戦略担当部長
 ただいま2番委員から、御紹介と発言の機会を与えていただきましてありがとうございます。
 昨日の委員会後の夜の席で離職の挨拶に関する新たな通告が3件ありまして、今の3点をほぼ寝ないで考えてまいりました。
 まず1つ目の、なぜ公務員になったかに関して言いますと、私は地元の大学で経済学科だったので金融機関に就職しようと活動しており、4年生の5月末には既に某証券会社に内定をしておりまして、全国を駆け巡って活躍する自分の姿を思い描いていたのですが、一方でうちの父が自衛官でばりばりの公務員であり、そういった家庭で育っているがゆえに公務員になったらどうだという環境の中にいたことは確かです。試験に受かるとは思っていなかったのですが受かってしまったものですから、そこで私の選択は2つあってお金を取るか、安定を取るかということで、安定を取ったというのが当時の率直な選択でした。
 入庁した当時は静岡県のため、静岡県民のためということに関してどれだけ思っていたかというとそれほど思っていなかったとは思いますが、やはり年月を経て立場や経験が備わっていくにつれそういった感情が醸成されていったのかなと思っております。
 2点目の、在職中の一番印象に残ったことについてですが、平成17年8月に空港部ができて10年空港の関係の仕事に携わりました。そこで京極経営管理部長とも石川政策推進担当部長ともお仕事を御一緒にさせていただいております。中でも平成26年と27年に空港運営課長を拝命しまして、開港までは非常に大変だったのですが、開港後も運用時間を延長しなきゃいけないということで地元の説明会に入りました。そこで私が課長ですから責任ある立場として皆さんの前へ登壇する形で地元住民と向き合ったこと、怒号飛び交う緊張の地元説明会の中で得られた経験はやはり自分が施策として進めているこの事業を住民の方々に理解していただくかが非常に大事だなと痛感しました。ただ非常にうれしかったのは牧之原市に3年出向して地元の方々とディープな関係となり、理解していただいたかは分かりませんが最後には山口が言うならしようがないと言っていただいたのが一番印象に残ってます。
 最後に、3つ目の今後の人生ですが、短いスパンで言えば定年延長の1年どう仕事をするのかにかかっているかなと思います。総務委員会説明資料でもありましたイノベーション事業は、昨年の夏から石川政策推進担当部長と私とで何回も議論をしてここまでつくり上げてきておりますので思い入れもあります。先ほど遠藤人事課長から同じ場所のところには置かないと言われましたが、何とか関わらせていただくとありがたいなという思いがあります。
 もう少し長いスパンで言うと、これからは職場というよりも地域の中での生活の時間が増えますので、まずは妻にそっぽを向かれないかということを気にしながら地域のコミュニティーにどう関わっていくかが大事で、私はまだサッカーをシニアチームで現役でやっていますのでやれる限りやって地域の方々と一緒に活動していきたいなと思っています。
 最後に職員の皆さんですが、自分の仕事に対して真摯に向き合いさらなる研さんを積んで、県民の代表である県議会の皆様が出席する委員会で自分の仕事に誇りを持って説明していただき、決して腐った組織ではないと示していただきたいと思います。ありがとうございました。

○野毛知事戦略局理事兼総務課長
 このような発言の機会を与えていただきまして、誠にありがとうございます。
 なぜ公務員になったのかでございますが、私は県に入る前にビデオデッキを売る仕事をしていまして、当時は耐久性に優れるVHSと高画質なベータの2つの記録方式がございました。私が売っていたのはVHS方式でございまして、お客さんはきれいな画質で録画したいと言うことが多かったです。自分が売らなきゃいけないものとお客様が欲しがるもの、その企業間の競争に少し疑問を感じまして公務員を目指すことにしました。出身地である静岡県に戻ろうと思って静岡県庁の試験を受けて合格したものですから、今の私があるわけでございます。
 今までの一番の思い出ですが、37年間勤めてまいりましたが、消費者行政に8年、建設業行政に6年と比較的そこが長い部署でございました。その中で自分の印象に残っている仕事と、後輩の皆さんに伝えたいことがございます。
 今から13年前、平成23年3月、東日本大震災が起きました。当時私は県民生活課におりまして、相談啓発班長をやってました。当時地震や津波で自宅を失った方々が避難するのに加え原子力事故もありましたので、強制的な指示を受けた方々が静岡県に来るということで円滑に受け入れるために早急に被災者受入れ相談センターを開設しろという命令を受けました。前例がないことでしたので、県庁中を駆け巡っていろいろな各課の制度や被災者を受け入れる施設を駆けずり回って、マニュアルをつくったり避難場所や入居許可証の調整をしたりしました。そのときも今まで仕事で一緒にやった方々に、先ほどの山口デジタル戦略担当部長の話じゃありませんが、野毛さんが頼むならと言って協力してもらいました。何とか3月18日に、受入れセンターを県庁と県下3つの県民生活センターに開設することができました。
 この経験から後輩の皆さんに伝えたいことは、前例のない仕事であっても必ずチャレンジしよう、しなさいということ。あと1人でできる仕事は限られていますので、必ず連携して協力できる仲間をたくさんつくってほしいということ。そのためには、ふだんもほかの所属やほかの職員から相談や助言、助力を求められたときには真摯に対応しておくことが大事だということです。真摯な対応をすれば、必ず相手の心に残りますので、また自分が困ったときにも助けてもらうことができるかもしれません。
 退職後でございますが、定年延長で1年間仕事をした後どうするかはまだ自分の中で決めておりませんが、私は趣味でギターを演奏しております。以前特別養護老人ホームで入居者の方々に歌を歌ってもらって伴奏をしたことがあります。そのときの皆さんがすごく楽しそうで、施設の方がおっしゃってたのは昔の歌を歌ったりすると昔のことを思い出して笑顔になるんですよとのことでした。ですからこういった趣味を生かして介護施設などでお年寄りの青春時代を思い出したり、自分も青春時代に行けることで過ごしたいなと考えております。
 最後に、これまで御指導頂きました先生方、また職員の皆さん、健康に留意されて今後も御活躍をされることを祈念いたします。長い間ありがとうございました。

○京極経営管理部長
 ねぎらいの言葉と、発言の機会を与えていただきましてありがとうございます。
 かなり個人的な質問で少し恥ずかしいのですが、御質問でありますのでお答えさせていただきます。
 まずどうして公務員になったのかですが、私は非常に受け身の人間でありまして、学生時代少しこじらせまして、人生とは何かみたいなことを考え行き詰まって卒業論文がなかなか書けずに留年を繰り返す状況にありました。さすがに親が見かねまして社会に一度出ないと駄目だよと話があり、無理やり試験を受けてこういった形になっているわけです。結果的に言いますとこういった公共的な仕事が合っていたかどうかは分かりませんが、それ以来35年間もの間、仕事を続けてこれたことは非常によかったなと思っております。ある意味で私はそれで救われたので、採用していただいた県には非常に感謝しているところです。ちなみに卒業論文も当時付き合っていた女性にかなりしつこく催促されまして何とか書き上げました。現在の妻でございます。
 2点目、思い出に残ったことは、先ほど山口デジタル戦略担当部長からもありましたが、私は若い頃、30代後半ぐらいに空港建設局、それから総合計画をする企画課におりました。そこで思いましたのは将来を予測することの難しさと大切さです。当時、空港建設局は今のように本当にできるかどうか分からない状況でして、反対される方々も県内を二分するぐらいにおりました。実際に土地収用が始まったとき、土地収用の35条調査のときにはまだ空港の建設が始まったばかりでしたけども、現地に行って文字どおり身を張って、全国からの反対派と小競り合いをする経験もしております。
 その中で私が携わりましたのは、航空需要予測であり、要は飛行機に何人乗るか、年間で空港を何人が利用するかを試算する仕事であります。当然委託先がやりますし有識者に意見をもらいながらやるわけですが、非常に難しかった。非常に苦労したのはなぜかと考えますと、1つはちょうど2000年過ぎたあたりに人口がそろそろ減少するだろうと予測が出ていました。それまでの右肩上がりで経済もどんどん発展するという時代から、人口が減少するだろうという時代に差しかかっていきました。それからちょうど私が入庁した平成元年以降、バブルの崩壊があり、経済的にも恐らくこのまま右肩上がりというわけにはいかないだろうとの状況でありました。
 もう1つは、航空自由化が2000年にあり、それまでは航空局が路線をある程度決めていたわけですが、それが届出制になり航空会社が勝手に飛ばす飛ばさないを決められるようになりました。そうしますとどのくらい飛ぶのか、飛ばしてくれるのかは全く分からない状況の中で、大体このぐらいの金額を設定するとこのぐらいの距離の人は恐らく利用するのではないかという計算を膨大積み上げていって予測することが必要になったわけです。
 もう1つは、静岡空港は非常に特色ある空港でして、普通の地方空港は東京路線で成り立っているものが多くあり、同時期に建設を進めておりました神戸空港の需要予測を調べたら1日に10便ぐらい飛ぶだろう、年間100万人とかすごい大ざっぱな予測をしていました。そういった意味で静岡空港は東京路線を持たない初めての地方空港だと思いますが、その頃はまだ国土交通省でも地方空港は国際線に参入してはいけないという話になっていて、国内線だけで需要予測をしなくてはいけない状況でしたので非常に難しい予測をしなくてはいけない状況にありました。
 それと同じことが実は総合計画の策定にもありました。それまでの総合計画は人口フレームと財政フレームを必ず設定することになっていました。将来的に人口がどのぐらい増えて、どのぐらいの間に支出、事業費を見込んだらいいのか設定することになっていたのですが、その頃の計画からかなりトーンダウンして長期的なプロジェクトもあまり設定せずに、短期間でKPIで何年後にこのぐらいの数字まで上げます、そのために実施する事業は試行錯誤してやってみて駄目だったら切り替えますという戦略計画方式に切り替えが始まったところでした。現在もそういった計画でやっております。
 一方、企画課にいたときに実は少子化対策もやっていて、国立社会保障・人口問題研究所というところが将来試算を出すわけですが、それは非常に確度が高い将来予測と言われていて、実際その頃に将来的に2000年代後半に人口はピークアウトし、これから日本全体1億人を切っていく推移をたどるだろうとほぼ分かっておりました。ただ、なかなかそれに対して対策は取れずに現実に至っているということです。
 何を言いたいかと言いますと、なかなか予測は難しくて、よく話の前振りに変化が激しい時代と言って、いろいろ目先のことをやるしかないなという感じになってはいるのですけれども、もう少し将来的な、長期的な展望を考えて着実にやっていかなきゃいけない仕事は必ずあるはずですので、なかなか日々業務で余裕がないわけですが、少しそういった長期、未来に目を向けて仕事をするのも必要なんだろうなと反省を込めて感じている次第です。
 それから3点目の今後ですが、とりあえず役職定年になりますので、当面、個人的なところとしましては、人材育成や働き方改革といった面で、ぜひ仕事をさせてもらえればいいかなと遠藤人事課長にお願いをしているところです。
 それ以降になりましたら、私も若い頃少し未解決の問題がいろいろありましたので、その辺にもう一度立ち返って、死ぬまでに何らかの納得できる答えを探しながら人生を歩んでまいりたいと思っております。
 この間、議会の皆さんそれから職員の皆さんに大変お世話になりました。本当にありがとうございました。

○小野田出納局長
 本日はこのような発言の機会を頂き、また先ほどは2番委員から心温まる言葉を頂戴しましてありがとうございます。感謝しております。
 御紹介頂きましたように、入庁が昭和61年でございます。昭和の時代で、まだ当時はワーク・ライフ・バランスですとかハラスメントとかいった言葉は一般的ではなく今から思うと程があり過ぎる時代だなと感じております。
 働き方も大きく変わりまして、今は1人1台パソコン、それからリモート、生成AI等デジタル化が急激に進んで業務も非常に効率化いたしました。ただデジタル化が幾ら進んでも仕事の中心にあるのはコンピューターではなくて人間だと思っております。ですので人と人との間に生まれる縁とか情を大切にしてもらいながら、チームワークで仕事をしていただきたいと皆さんにはお願いしたいと思っております。
 質問のありました1点目、公務員を目指した理由でございます。
 特に高尚な動機はございませんでした。もしかしたら仕事が楽かな、実家から通えるところがいいなといった軽い気持ちだったのですが、それも異動3か所目の本庁勤務になって幻想が吹き飛びました。
 ここまでの公務員生活を振り返ってみますと、私は通算で10年間ぐらい人事行政に携わってまいりました。人事課時代は、ここに人事課の後輩たちがいますけれども、量それから質ともに非常に大変で自分自身ももう体力、能力的にもぎりぎりな感じでございました。人事は職員のこれからの公務員人生を左右しかねない本当にプレッシャーのある仕事でございまして、夜も眠れないような日が続きましたけれども、そうした中でも心から尊敬できる先輩、それから同僚に出会うことができまして本当に公務員人生の中で大きな宝物になったと感じております。その後も秘書課、それから広報課、教育委員会事務局など幅広く県行政を経験をさせていただきました。異動のたびにその分野でのエキスパートになろうと必死になりましたけれども足りない部分もたくさんあったかと思います。ただその都度、県議会の皆様から御支援を頂きまして本当に感謝をしております。ありがとうございます。
 約40年の公務員人生のうち、つらいことがたくさんございました。何とかここまでやってこれたのは、上司それから先輩、そして家族の支えや助けがあったからこそと思っております。これまで自分が受けた恩を後輩たちに送ろうと努めてまいりましたけれども、職員の皆さんもぜひ恩送りの実践で、県庁組織をますます発展させていってほしいなと感じておりますし、これから家族にも目に見える形で感謝を表していきたいと思っております。
 最後になりますけれども、来年度、非管理職員として県庁にとどまることになると思います。10番委員からも御質問がありましたけれども、自分に求められることになります新たな役割をしっかり果たしていきたいと思いますので、県議会の皆様方には引き続き御支援をお願いしたいと思います。長い間大変お世話になりました。ありがとうございました。

○金井出納局次長兼会計総務課長
 御紹介と発言の機会を頂戴いたしまして感謝申し上げます。
 私が県に採用されましたのは昭和57年で、男女雇用機会均等法がまだなくて、民間企業などでは、女性は結婚までの腰かけという風潮がまだまだ強い時代でした。そういった中で公務員は結婚、出産を経ても当たり前に働き続けることができる職種だったというのがこの職を選んだ理由として大きかったのではないかなと記憶しております。
 県職員としての使命感は、働き続ける中で徐々に芽生えていったというのが正直なところでございます。
 在職中で印象に残っていることでございますが、私は在職期間42年間のうち、3分の1に当たる14年間を出納局で勤務いたしました。自分といたしましても、出納局の業務が性格に合っていると申しますか、業務としては地味ですけれども、公金支出、物品管理の最後のとりで、総務事務の要という出納局の業務の重要性を日々感じておりました。そういった職場でやりがいを持って従事でき、そして最後の職場を出納局で締めくくることができ大変ありがたく感慨深いものがあります。
 すみません今までちょっと平気だったのですけれども、急にこの場に立ちましたら込み上げてくるものがございまして、失礼いたします。
 今後でございますが、私は3月末をもって職を退きまして、今後はちょっと格好つけた言い方ではございますけれども家族への恩返しを考えております。これまで働き続けてこられたのも家族の支えがあったからこそで退職後は自分が家族の支えになりたいと考えております。
 最後になりますけれども、退職に当たりまして今思うことが、本当に感謝あるのみです。家族の支えだけではなく県議会議員の先生方からの温かい御指導をはじめ、先輩職員の皆様、それから上司、同僚、後輩の職員の皆様からの支えがなかったらとても今日まで働き続けることができなかったと思っております。
 私は出産したときは、育児休業もない時代でしたので、これまで仕事と育児と家庭の両立について悩んだときもございました。また女性職員の登用が進められ自身が管理職になる際にも、果たして自分に務まるのだろうかと不安に感じたこともございました。そんな中において何とか今まで働き続けてこられたのは皆様方に本当に常に温かく見守っていただいて、困ったときには助けてくださって時には前に進むように背中を押してくださったおかげだと深く感謝しております。
 改めてになりますけれども、皆様方におかれましては健康に留意されますます御活躍されることを祈念しております。本当に長い間ありがとうございました。

○法月出納審査課長
 本日はこのような機会を頂き、大変ありがとうございます。
 まず、私が公務員を目指した理由ですが、実は私の両親は2人とも公務員で、公務員しか身近にはいなかったところが1点です。ただ父は国家公務員だったので、非常に転勤も多く単身赴任もしてました。それを見ていて、まめじゃない私は多分餓死するかごみ屋敷にしてしまうかのどちらかかなと思って、地元で比較的転勤の範囲も狭いところで県庁を選択させていただきました。おかげさまで単身赴任もせず今に至っています。
 仕事の関係ですが、実は皆さんのこれまで頂いたお話の中で私が多分あまりにも偏った職場配置をしてきたかなと思うんですが、実は私、38年の勤務中多分30年近く情報システム関係か会計事務かの2つだけで終わってしまっている状態です。そんな中でシステム開発にも幾つか携わったのですが、一番というか最近印象に残ったものとして電子入札システムを開発しました。公共事業の入札ですので応札者の方、受注者の方がいらして、その方々はいろんな入札に参加されます。そうすると、当然県がシステムを勝手につくって県はこれをやるよ、市町の方はまたそれぞれ別につくってこれをやると言ったら建設業者の方はそれに全部対応しなきゃいけなくなりますので、それはよくないでしょうとなり市町と一緒に共同で使えるシステムをつくっていきましょうとなりました。最初はかなり混乱して、一緒につくると言うとそれぞれこうしたいああしたいと出てきたので、最後は結局県がお金を出すからこれについてこいという感じで勝手に進めてしまったところがあったのですが、最初は5つの市が共同利用に参加してくださいました。それが来年度ようやく全市町がそのシステムに参加していただけることになったようで、それを聞いて本当に20年間かけてようやく目標が達成できたなと非常に感慨深いものがありました。私の力は本当に微々たるものでしたけれども、本当に長い年数、20年ですので担当者は何人も何人も変わっているのですが、その中で毎年1つとか2つとかの市町に参加していただきながら最後は全市町参加になったと、こういう仕事もあるんだなと思いました。最初は簡単にできると思っていたのですが、ぜひあまりにも大きすぎるなかなか道が険しいものでもいつか実現できると思って皆様には取り組んでいただきたいなと考えるところです。
 これからですが、仕事の話ではなくなるのですけれども、私もようやく子供が独り立ちしてくれまして、これからは自由だなと思って妻と2人になってしまいます。そうなったときに、じゃあ一緒に旅行しようかと声がけをしたのですが、冷たく1人で行ってきたらと言われてしまいましたので、早速ですが5月下旬から仙台でポケモンGOのイベントが控えてまして、そのイベントに行ってこようかなと今考えています。帰ってきてまさか家にチェーンがかかっていることはないよなということだけ信じて行ってきたいなと考えております。
 こんな長々とくだらない話をしてしまいましたが、本当に皆様のおかげでここまで来ることができました。ありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。

○中沢委員
 皆さんがまさかこんなに饒舌だとは思いませんでした。私の質問がよかったせいか、今年度の中で一番いい答弁をもらったのではないかなと思います。これからまだまだ先の長い人生でございます。一人旅の人もいればサッカーをやる人もいれば未解決事件の捜索に出る人もいるみたいですが、末永く御健康でお過ごし頂きたいと思います。以上です。

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