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委員会会議録

質問文書

開催別議員別委員会別検索用


平成31年2月定例会総務委員会 質疑・質問
質疑・質問者:天野 進吾 議員
質疑・質問日:02/28/2019
会派名:自民改革会議


○天野(進)委員
 きょう、この中から7名の方が長い現職生活と別れをし新しい出発になるわけでありますけれども、せっかくですから7人の方々にそれぞれ何か一言言っていただきたいと思っております。
 まずは、佐藤政策推進担当部長からよろしくお願いいたします。

○佐藤政策推進担当部長
 2番委員には、本会議の際にも温かいお言葉をいただきました。またただいまこういう発言の機会を設けていただきまして、本当にありがとうございます。
 私は、昭和56年に県庁に入りまして、38年間公務員生活を続けてまいりました。その中で健康福祉ですとか生活文化、最後のほうは企画が多かったんですけれども、幾つか思い出に残ることがございますので、そちらをお話させていただきたいと思っております。
 ちょうど昭和63年、ちょっと古い話ですけれども三原山が噴火をいたしまして、島民の方が避難してきて下田とか東伊豆にかなりの方がいらっしゃいました。私は、ちょうどそのとき西部の医務課におりましたので、特にお年寄りの方、病人の方は病院、高齢者施設に入っていただいたことがあったんですけれども、毎日避難した方々の状況を確認して当時の厚生省に報告しておりました。毎日病院、福祉施設に連絡しますと、きょう何人死んだよ、きょう何人死んだよという話がずっとありまして、それをまとめて毎日報告したんですけれども、何かすごくやるせない気持ちとどうしたらいいんだろうという思いに駆られたこともありました。それから防災対策ですとか医療体制の充実はしっかりやっていかないとだめなんだと思い知らされました。
 話は変わりますけれども、平成5年には商工労働部におりましたが急激な円高が起こったときでありました。あのときたしか1ドル78円か79円ぐらいになりまして、これはえらいことになるぞと、何かやらなきゃいけないぞと我々若手何人かでチームを組み、とにかく企業を全部回ろうという話をしまして、最初は100社目標でやっていたんですが、そこまではいかなかったと思いますけれどもかなりの数の企業を回らせていただきました。ちょうど7月、8月の暑いときで当時はまだクールビズがなかったものですから、ネクタイしてスーツ着て、暑いさなかずっと1日何社も何社も回らせていただいて、皆さんの声を対策というか施策につなげられたことがございました。現場の生の声を聞いて、それを施策にすることが非常に重要だとそのときに改めて確認をさせていただきました。
 また、平成14年から3年間文化行政に携わっておりまして、県立美術館、グランシップ、SPACと文化事業をいろいろ展開してまいりました。特にSPACにつきましては今も海外でかなり有名というか著名になっておりますけれども、私がいた当時はロシアとの文化交流を非常に積極的にやっておりまして、ロシアに行って公演をしたりロシアからバレエ、演劇を招聘いたしまして県内、国内で公演していただきました。それを見た方々から非常に反響をいただきまして、文化芸術って本当にすばらしいものだなと感じさせていただきました。
 あと、平成元年から4年までの4年間は財政課におりまして予算を担当させていただきました。その後一切予算関係に携わることがなくて、予算にかかわらずにこのまま退職だと思っておりましたら、最後の1年になりまして予算にかかわることができまして、これは感慨深い思い出になるだろうと今思っております。
 総じて、自分なりには充実した公務員生活が送れたと思っておりますけれども、これもきょういらっしゃる県議会議員の皆様ですとか今はもう退職されました先輩諸氏、それから同僚、スタッフの皆さんのおかげだと思っております。本当に心から感謝申し上げます。
 もう退職まであと1カ月になったんですが、実際にはまだ本当に退職するのかなというのが実感であります。あと1カ月たちますと否が応でも退職はしますので、退職しても県のため、そして県民の皆様のためになるように少し努力をしていきたいと思っております。私の38年間に感謝を申し上げまして私の挨拶とさせていただきます。本当にありがとうございました。(拍手)

○天野(進)委員
 それでは続いて、杉山行由経営管理部長よろしくお願いいたします。

○杉山経営管理部長
 2番委員には、議会の貴重な時間をいただきましてありがとうございます。
 私が答弁者となって12年、そのうち文教警察、産業、厚生を除きますと6年間総務委員会にお世話になりました。やはり6年間の総務委員会は私にとって非常に大きな6年間でございまして、中でも2つの委員会が心に残っておりますので、その当時のことを少しお話させていただきたいと思います。
 まず、平成24年2月、副知事3人制が提案されたときの委員会でございます。その当時の総務委員会には、9番委員と7番委員が、同じ席でたしかおられたと思います。3月5日に追加上程をされて3月12日の総務委員会で一度は可決をされましたが、16日の本会議で否決をされたということでございます。当時、口幅ったい言い方をしますけれども、まさに行政と政治の結節点にこの委員会があったと思います。
 それと、3月12日の総務委員会から3月16日の本会議の間で当時の現職の副知事が辞意を表明されて3月16日に知事から本会議場で報告という形で辞意のあったことが表明をされ、それでも否決はされたわけでございますけれども、ちょうどその委員会の3月12日から15日の4日間に、私は当時人事担当として連日のように当時の現職の副知事と協議を重ねていたものでございますから嫌な予感がしていたのも事実でございます。15日に副知事から知事に――前日ですけれども――辞意を申し上げたということでございます。その当日の朝だったと思いますけれども、俺やめるからなと急に言われて、一番恐れていたことが起きたなというものでございます。そのときに重責にある方の矜持はこういうものなのかなと一番強く感じられたわけでございます。
 2度目が平成27年の2月県議会の教育長人事でございます。当時と一緒で改選期のときのちょうど4年前でございますので、これも数奇な運命をたどったわけでございます。3月2日の委員会で一旦は可決をされましたが、その後新聞報道等で経歴の問題がありまして、一旦は可決されたものの11日に再度本会議前に委員会が開かれて――3月11日が本会議最終日だったわけでございますけれども――本会議を中断して秘密会で委員会を開かせていただきました。そのときには知事に答弁者として来ていただきました。限られた答弁者の中で2時間ほどやった記憶がございます。当時の下山経営管理部長と知事と私と藤原人事課長と、数人の者で対応させていただいたところでございます。
 結局継続審議になりまして、閉会中審査として3月18日に再度総務委員会を開いたと。その3月11日には本会議、総務委員会、本会議、総務委員会という形で進んだように記憶しております。ですので、18日の日程を決めるために3月11日の総務委員会が終わったのがたしか午後の10時だったと記憶をしています。実は3月18日に参考人招致として当時マスコミの報道も激しかったものですから、非常な緊張感の中で一部秘密会で開きました。3月27日に臨時会を開かせていただいて、最終的には否決されたという結末でございます。その否決のテレビの画面を見ていて、たしか私これで4月1日以降仕える上司を失ったなという気持ちと、どこか心は非常に平穏で非常に複雑でございました。この教育長人事のときは調べてみますと私と下山経営管理部長で計100回以上答弁に立った記憶がございます。そんな中でこういう委員会の中で、公の場で質疑に答える際には借り物の言葉ではできないと、やはり体の中にしみ込んだものしか結局最後には答弁できないんだとつくづく感じたものでございます。
 この2つの委員会は、私にとって非常に職業的転機だったと思います。特に教育長人事のときの質疑においては質問なさる委員、それと答弁に立つ私どもとの間のやりとりの中でそれぞれの内面の琴線に触れるような場面が幾度となくあって、お互いにと言っては失礼になるかもしれませんけれども、各委員それぞれにお悩みになっていると感じました。
 それと、私が非常に申しわけないと思ったのが、厳しい質問の中にも非常に配慮していただいた質問を受けました。実は3月11日の本会議最終日に幹部職員の異動が既に発表されておりまして、3月18日の総務委員会においてはですね、私自身が教育次長、ナンバー2として教育委員会に行くことが決まっておったわけでございますけれども、そうした中、3月18日の質疑の中で教育行政に余り経験のない教育長をおまえら一体どう支えていくんだという質問もありました。直接的な言い方はそうなんですけれども、もう少し婉曲な言い方で質問していただきまして、私としても自分が支えますとはなかなか言えなかったものですから、直接的な表現ではない形で御指導をいただいたことは非常にありがたく思っております。
 そうした経験が、後々考えてみますと職員として、わずかばかりですけれども人間として成長の転機だったなと思います。
 そんな経験から、今私の後ろにいる幹部職員は
今後県政運営の恐らくかなめとなっていく人材であろうと思います。
 今後とも、委員の皆様には厳しい指導とともに温かい御指導をぜひよろしくお願いしまして私の退任の挨拶といたします。どうもありがとうございました。(拍手)

○天野(進)委員
 後輩の皆さんへの温かい言葉もありましたけれども、私のところの時計がゆっくり進んでいるのかわかりませんが、またよろしくお願いします。
 続いて、山梨県理事。

○山梨静岡県理事(地方分権・大都市制度担当)
 2番委員、御配慮いただきまして本当にありがとうございます。また先生方にはさまざまな形でお世話をいただきまして、本当にありがとうございました。
 私は、昭和58年4月に本県採用になりまして、一般の方より少しゆっくり、なかなか入れてくれる大学がなくてそこでもたつきましたので24歳で県の職員を拝命いたしました。
 下田土木事務所とか静岡財務事務所、現在の健康福祉部ですけれども当時衛生部の医務課――佐藤政策推進担当部長がおられたところと同じですが――そういったところの勤務の後、総務部の市町村課、現在の市町行財政課あるいは地域振興局ですが、ここからが実はある特定の分野での経歴が非常に長くなりましたので、そこを中心に少し報告を申し上げたいと思います。
 このあたりを振り返りますと、この国の地方自治とか、その制度の運用に結構長く深くかかわることがたまたまできたのは大変有意義でございました。まさに自治とは何だろうかとか、その本来のあり方に触れまして、大きな制度改革の波に割とどっぷりとつかりながらやってきた公務員人生でございました。またその間に出向で国、市役所でも勤務することができましたので、県だけではなく国とか基礎自治体といった全ての行政事務にかかわることができたのも大変幸せでございまして、この点は人事に深く感謝をしているところであります。
 御案内のとおり、平成に入って大きく進行した地方分権の流れとか、その中での大都市制度の改正、それから平成の大合併、中核市とか特例市とか政令指定都市が県内の大都市として次々に誕生していきましたが、その全てに直接かかわることができましたのはよかったなと思っております。
 また、地方分権の仕事は県の仕事についておおむね、何となく全体がわかっていないと進めることができないものですから、私は人事とか財政とかの畑ではないですけれども、この仕事をしながら県の仕事の全容についておおよその理解と把握ができたものですから、それもようございました。
 また、当時の総理府、現内閣府の地方分権推進委員会事務局に出向勤務させていただいていたので、当時結構分権は注目されておりまして、政府の進める地方分権改革の下働きができまして大変有意義でございました。またこの仕事を通じて霞ヶ関の仕事の一端をかいま見ると、一番にやはり彼らは優秀でございますので、そういう仕事の仕方を見ることができたのも学習になりました。
 さらに、県から市町への大幅な権限移譲と検証についても市町の自治能力を高める点では意義を感じておりました。その後の市役所での出向勤務――県内の市で勤務させていただいたんですがなかなか忙しくて、基礎自治体は本当に毎日大変だなと、朝行ってみないと日々何が起こっているかわからない。多忙で休みもほとんどございませんでしたし、元旦でも平気で部下から電話がかかってきますので対応が必要で、日々全てが新鮮で全てが現場だという厳しさとか忙しさが大変楽しくて県に戻るのが嫌になりまして、結果的に6年半もいることになり市にも随分御迷惑をかけたわけでございますが、そういった生の現場の自治行政経験は現在私の生涯の財産と考えております。
 今、こちらに後輩各位控えていますから大変生意気ながら2つだけ申し上げたいのは、これから県のあり方が大変当局にとって重要になります。どんな役割を果たしていくのか、県民とか市町に対してどんな仕事をしていくのか大変重要な時期に入っております。それを日ごろの業務だけに埋没しないで時に立ちどまって考えていただければと思います。
 もう1つは、従来から申し上げていることですけれども、市町との連携と協働が大変重要でございます。地域課題は膨大でありますから、県と市町との信頼関係をもって一緒に仕事をして課題を解決をする姿勢がこれから非常に重要になってきます。そういったことを若い人たちにお気づきいただけるとありがたいなと思います。
 貴重な機会を与えていただきまして、本当にありがとうございました。(拍手)

○天野(進)委員
 次に、渡瀬出納局長よろしくお願いします。

○渡瀬出納局長
 2番委員には、本会議そして先ほども過分なるお言葉を頂戴しまして本当にありがとうございました。またこのような機会を与えていただきましてありがとうございます。
 私も、昭和56年4月採用で38年間県に勤めさせていただいたいてございます。この間かいつまんで言いますと、経営管理部、人事委員会に10年間、健康福祉部に10年間、そして今で言う経済産業部、労働と第1次産業中心でございますけれども、そちらに10年間という形で主に3つの部局にお世話になったところでございます。
 新規採用から役付けになるまでの13年間、そのうち10年間は経済産業部におりました。特にその後半部分につきましてはちょうどプラザ合意があって、その後円高不況、そしてバブルにぐっと上がっていって崩壊していった時期に第1次産業ではございますけれどもさまざまな事業者に非常に近い仕事もさせていただいていたと。また融資制度等も扱っていたこともありまして、今はありませんが、公定歩合といった言葉もありましたけれども、それがその前の狂乱物価のときまではいきませんでしたけれども、当時6%か7%まで公定歩合があったという時代まで上がったこともありますけれども、非常に急に上がったり下がったりという時代に経済状況を見ながら、第1次産業で第2次産業等に比べると影響は少なかったのかもしれませんけれども、じかにそういった経済的な面、経営的な面にかかわることができました。
 その後、役付けになりましてから管理職になるまでの間に2年間ほど廃棄物の仕事をさせていただきましたが、それ以外は経営管理部の人事課、そして部局の総務で職員の仕事を支える仕事につかせていただきました。個人的には直接県民に接する仕事をすることが私の願いでしたけれども、そういう仕事もあるということでやってまいりました。本日は多くの議員の方からコンプライアンスとかパワハラの話が出ておりましたけれども、県庁の中で平成一桁の終盤から平成10年代の中盤ぐらいまでに、公金をめぐるいろいろな問題がございました。私は一度出てから人事課に戻ったときに、建て直すといいますか信頼回復をしなくてはならないということで呼び戻されまして、いろいろと建て直しの仕事をさせていただきました。なかなか言えないこともたくさんございましたけれども、当時愛読書としましては「失敗学のすすめ」ですとか「失敗の本質」、佐々淳行さんの「危機管理」といった割と失敗系、それから企業倒産あるいは転落の事実とかが結局愛読書のような形になっておりました。当時できることはやったんですが、きょうの話題にもなるような状態で、非常に申しわけなかったと思っております。当時もっとしっかりできていればと反省をしております。
 その後、管理職になりまして健康福祉部に配属になりました。その前に総務を2年間ほどやっておりましたので、全く健康福祉部を知らないというわけではないんですけれども、初めて管理職になってから事業を行うということで周りには20年選手――長くやっている職員がたくさんおりましたので、そういう職員から見れば本当にはな垂れ小僧という中で、主に子供の福祉、部の企画等をやっておりました。子供の福祉の際にはいろいろと現場に近いところにも行かせていただきましたけれども、世の中には非常に重い疾患あるいは障害がある方々、それから貧困、虐待、DV、さらには孤独といった非常に厳しい環境に置かれていらっしゃる方々が多いことを痛感いたしました。それまでの私の人生の中で自分が恵まれているなと痛感をいたしました。そういう方々、自分の力では頑張っても乗り越えられないようなものを抱えていらっしゃる部分がありますけれども、その中でも精いっぱい頑張って生きている方もいらっしゃいまして、本当に勇気をいただいてございます。
 また、そういった厳しい環境に置かれている方を支える専門家の皆様、そしてボランティアの方々がいらっしゃるということで、私は給料をいただきながら仕事をしている中でそういったことを抜きにして恵まれない方に力を注がれている方が多いと、それも私のその後の人生の中で常に自分の心の中にいるところでございます。
 38年間の中で、本当に多くの県民の皆様とお会いする機会があって非常に勉強になりました。また私は非常にマイペースな人間でございますけれども、それを周りの上司、同僚、部下の方々に支えていただき本当に感謝をしております。
 県議会議員の皆様方には、私が管理職になってからお付き合いさせていただいておりまして、視察にも連れていっていただいたこと、委員会では非常に苦しい答弁がたくさんあったと記憶してございますけれども、逆に背中を押していただいて施策が進んだ思い出も数多くあります。
 私どもは、これから人生80歳まで頑張れと最近言われておりますけれども、これから少しでも社会に貢献できることを探していきたいと思っております。
 支えてくれた職員の方々には、やはり県の公務員は世の中の方々に喜ばれることを仕事にできるありがたみがあろうかと思います。それを意識して、かつそこに甘えることなく、次の世代にいい社会をつなげていっていただけるようにお願いしたいと思います。
 また、余り頑張り過ぎずに、頑張り過ぎると病気にもなります。頑張り過ぎずに、ただ粘り強く諦めない姿勢でやっていっていただきたいと。そして、よくみんなで能力を上げていきましょうということもありますが、私的にはそれぞれ個性を持っていて持ち味があると思います。その持ち味を出し合える組織で、お互いに尊重しながら組織運営をしていただきたいなと思っております。
 長い時間ありがとうございます。貴重なお時間を頂戴しまして、これで私の挨拶とさせていただきます。ありがとうございました。(拍手)

○天野(進)委員
 今の言葉の中で80までと、私77ですから。これから次の仕事をやろうとしている。これは4年間ですからもう81になっちゃうんですね。どうぞこれからもさらに90、100まで頑張ってください。
 続いて、秋山監査委員事務局長よろしくお願いいたします。

○秋山監査委員事務局長
 発言の機会をいただきまして、ありがとうございます。
 私も、昭和56年4月に採用になりまして、38年間県庁でお世話になりました。38年間のうち土木部の経験が7年間、財政課の経験が11年間でこの2つが長かったものですから、そのときの体験をちょっと話をさせていただきます。
 最初、新規採用で昭和56年に土木部の道路維持課路線係に配属になりました。今で言う交通基盤部道路局道路保全課の道路管理班です。公物管理法の道路法があるんですけれども、それに基づいて県管理道路の管理に関する法律的な手続き――例えば新しい県道路線を認定するとか、道路を改修するときに事前に道路区域を変更したり工事完成後はその供用開始の手続きをやっておりました。新規採用3年間でまず公務員の心得、公文書作成の基礎知識、許認可に係る法令の解釈運用を当時の係長が厳しかったのでいろいろ勉強になりました。
 そのあと、4カ所目に土木部の建設業室に配属になりまして、平成2年度から4年間仕事をさせていただきました。当時公共投資が拡大しているときでありまして、公共工事の入札契約制度の改善に取り組みまして、その中で一番思い出にあるのが制限付一般競争入札を導入する仕事に携わりました。当時は東北地方で2つの県知事が公共工事の指名に絡んで逮捕される事件があって、国も県も公共工事は指名競争入札が中心でしたけれども、初めて制限付一般競争入札にかじを切る時期だったものですから、本県も乗りおくれないように作業をさせていただきました。平成6年度から試行すると決まったんですけれども指名競争はいろいろ事務マニュアル等があるんですけれども、当時はその事務マニュアルがなかったものですから、土木事務所の職員が円滑に実施できるような規程の整備を四苦八苦しながらやることができました。当時30代の前半でしたけれども、大きな仕事をさせてもらって大変自信になったと思います。
 もう1つ、最後ですけれども平成6年度から行ったり出たりで3回でしたけれども合計11年間財政課でお世話になりました。予算とか経理の経験が全くなかったですから、いろいろ知らないことばかりで苦労がすごく多くて、嫌だなということも大変多かったんですけれども、実際今思うとそれ以上に得られたことが多いなと思いました。私からすると財政課の経験がそれ以降の仕事のバックボーンになった、経験させてもらったなと思います。経験させてもらったことで思ったことですけれども、1つはいろいろ物事の全体像を把握して俯瞰する視野を持つこととか、懸案事業がいろいろありますけれども、利害関係が絡んでいますから100%こっちの考えを押し通すんじゃなくていろいろ着地点を勘案しながら取り組むとか、大きな政策とか予算ができ上がるプロセス等にも関与することができて大変勉強になったと思います。
 最後ですけれども、いろいろ経験させてもらったことを話しましたけれども、先生方を初め先輩、同僚、後輩の支えがあって38年間仕事ができたかと思います。いろいろ感謝しております。長い間ありがとうございました。(拍手)

○天野(進)委員
 ありがとうございました。
 続いて、黒柳電子県庁課長お願いいたします。

○黒柳電子県庁課長
 このような貴重な時間をいただきまして、ありがとうございます。また委員の先生方には日ごろからさまざまな視点で御提案、御指導いただきましてありがとうございました。
 さらには、きょう最後の委員会で質問もいただきまして、この場をかりてお礼申し上げます。
 私は、電気技師といたしまして昭和56年4月に採用になったわけです。当時の営繕課で本館の2階でした。書類の山がとにかく多くて人の顔が見えない。それで薄暗い。それで紫煙が立ち込めており前が余り見えない環境でした。こんな環境で働くのかと今でも覚えているんですが、そんな中何もわからず座っておりまして夕方5時近くになりましたら隣の先輩が本を積み上げるわけなんですね。電気事業法から建築基準法、消防法等あるんですが、これを黒柳君1年間で覚えろと、それでないとこの課にはいられないぞと言われました。非常に長かった1日だったと記憶しております。
 私は、営繕課で始まりまして、建築課で行政、管財課で維持管理を経て、また設備室へ戻ったり大学課といろいろなところを経験させていただきました。それでまさか最後に13階の設備課にいて、それ以上上の階で仕事をすることはないだろうと思っていましたら、最後が電子県庁課で非常に驚いたおととしの4月であります。
 長い経験の中で特に印象に残る思い出がどこの部署でもあるんですが、2つほど披露させていただきたいと思います。
 まず1つは、平成13年度に事務交流でユニバーサルデザイン室の内示をいただきました。増井地域外交監が前任だったので引き継ぎに行ったわけです。そこで全国大会を来年やると言われました。しかし予算はとっていないから補正予算でとれと。これは何だろうと目が点になったのを覚えておりますが、4月になってから企画書を持って当時の北井副知事の部屋へ半日缶詰になったりして何とかやってきて、ユニバーサルデザイン推進協議会を立ち上げてNPOなどの市民団体と協働で全国大会をやってきまして、大変すばらしい大会で1,000人以上集まっていただきました。このことは非常に達成感があり、今まで経験のなかったことで非常に感激しております。
 もう1つは、少し先になりまして平成17年度。これは山梨県理事も御存じだと思うんですが、耐震偽装事件が秋に勃発いたしました。姉歯建築士に始まりヒューザー、木村建設、あとイーホームズ等いろんな組織とか人物が絡んでおりました。この中で経験したのは答弁調整でした。全会派から判で押したように耐震偽装問題について質問がきまして、山梨県理事にも協力いただきましてやっつけた次第でございますが、確かにやっつけ仕事でした。情報量が少なくてなかなか答弁に苦慮しました。なぜ電気技師の私が書くのかといいますと、建築の方ですと非常に言葉が専門語になってしまってわからないので、おまえがやれということでやらされた経験がございました。あんな多くの答弁調整をしたのは初めてでございました。
 いずれにしましても、さまざまな機会をいただきまして、人と出会うことを非常に大切にしていきたいと教わった次第です。孟子の言葉ではないですが「天の時は地の利にしかず」、また「地の利は人の和にしかず」という言葉がございます。タイミングと環境は非常に大事だと思いますが、それをちゃんとした形に変えるには人の和が非常に大事じゃないかと仕事の中で教わったことでございます。
 いずれにしても、この気持ちを後進に伝えながら設備職員の発揚を願ってやまない限りでございます。短いですが私からの御挨拶とさせていただきます。ありがとうございました。(拍手)

○天野(進)委員
 ありがとうございました。
 最後に、高橋出納審査課長よろしくお願いいたします。

○橋出納審査課長
 委員会の先生方には大変お世話になりました。
 実は、総務委員会には説明員として6年間出席いたしましたが、今回が初めての発言となります。最後の最後に、発言する機会をいただき本当にありがとうございます。
 私の仕事は、内部管理事務が中心でございまして昔の総務部や出納局、それから議会事務局にも3年間お世話になりました。そのうち最も長く通算8年間いました職員厚生課、今の福利厚生課でございますが、そのときの思い出話をさせていただきます。
 最初に行ったのが、平成が始まった直後のバブル期真っただ中でございまして、職員の福利厚生の充実が叫ばれておりまして当時の自治省も職員のライフプランを支援するために地方公務員等ライフプラン協会を設立しました。私も設立間もないときに2年間ほど出向いたしまして、ライフプラン――生涯生活設計でございますけれども、その普及啓発ですとか講習会を担当しまして、みずから講習会の講師として北は北海道から南は九州の自治体を回っておりました。
 講習会では、退職後の生活設計を中心に来るべき少子高齢化に備えて、若いうちから老後の備えが必要なんだと説明してきました。しかしながら私個人、本人としましてはぜいたくをしなきゃ退職金と年金だけでそこそこ暮らせるんだなと印象を持っておりまいた。
 しかしながら、その後御承知のとおり社会経済が大きく変動しまして、いざ退職を目前に自分のライフプランの再計算をしたところこんなはずじゃなかったと。やっぱり自分が説明したとおり備えは必要だったんだなと反省しているきょうこのごろでございます。
 ただ、公務員生活に多少の過ちはあったかもしれませんけれども、大過なく過ごせたのでほっとしてはおります。これもひとえによき上司、同僚、後輩に恵まれたおかげだと感謝しております。
 これから、高齢化ですとか人口減少が進んで県や県職員を取り巻く環境もますます厳しくなろうかと思いますが、後輩の皆様方には十分な備えをしていただいた上で引き続き御活躍されることを期待しております。長い間お世話になりました。ありがとうございました。(拍手)

○天野(進)委員
 皆さんからそれぞれお話をいただきました。
 今、橋出納審査課長のお言葉の中にもありましたように、まだこれからが長いですから大いに新しい人生を歩んでいっていただきたいと思います。77になった男にさらにあしたがあるんですから、皆さんそのつもりで頑張ってください。きょうはありがとうございました。

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