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委員会会議録

質問文書

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令和6年2月定例会建設委員会 質疑・質問
質疑・質問者:中谷 多加二 議員
質疑・質問日:03/08/2024
会派名:自民改革会議


○中谷委員
 一問一答方式で篠原地区の野球場に関して伺います。
 少し意見を言わせてもらいます。
 野球場建設の話が出た当初、私は建設に絶対反対しようと思っていました。
 理由はなぜかというと、私は浜松市天竜区の人間で、浜松市は以前から高山市に次いで2番目の面積を誇ると表現するわけです。それはどういうことかというと、天竜区は浜松市の66%の面積を占めており天竜区が入らないと2番とは言えないので、そこは浜松市の仲間入りをさせるのですが、事業や予算づけに関してはもうざん言です。いわゆる冷たい仕打ちを受けていたので、その当時のトップを含めやることに全然面白みがないので、頭ごなしに反対しようと思っていました。
 ところが、浜松市長がお替わりになって、地元の天竜区に副市長も置いていただいたこともあり、浜松市も少しは天竜区を仲間にしてくれたのかなと思いましたので、私も野球場建設に当たっての様々な議論の仲間に入れてもらおうと、いろいろと感じていることを申し上げたいと思います。
 その前に原点に返って、いまだに建設地として篠原地区をお題目のように言っているわけですが、地元の天竜区から高塚駅そして篠原、天竜区から愛野駅のエコパ、大体距離が一緒なのでどっちに造ってもいいじゃないかと。むしろ道路渋滞を考えると、袋井市のほうが良いとの意見がいまだにございます。私はこれは駄目だと分かっているのですが、伊東公園緑地課長にもう1度、そう思っている人にびしっと聞こえるように言っていただきたい。

○伊東公園緑地課長
 小笠山総合運動公園エコパにつきましては、硬式野球場の建設に適した平地がないと考えております。新たに建設可能な平地を造成するか、現有施設を廃止して野球場に転用するかのいずれかの手法を選択することになります。
 エコパは建設段階から健康とスポーツと自然という公園のコンセプトに基づき、豊かな自然環境や良好な自然景観を形成している区域の地形、特にオオタカが営巣する山林の改変は行わない計画としております。また運動施設は高い頻度で利用されていますので、施設の廃止について利用者の理解を得ることは非常に困難であると考えております。このようなことからエコパへの硬式野球場の建設は非常に難しいと考えております。

○中谷委員
 改めてですがよく分かりました。
 今度そういう御意見があったら伊東公園緑地課長に聞いてくれと言っておきます。(笑声)

 本論に入っていきますが、この答弁席にお座りの方の中で県と政令市の関係は対等だという言葉を聞いたことがあると思いますし、そういった現場や考え方に出くわしたことが少なからずあると推察していますし、私も実際そのように言われたこともございます。政令市は県と同等なんで大したもんだなと、付随してたくさんの財源、権限が政令市にも移譲されているわけで、十分自治体としての力を持っていると認識しています。
 例えば、政令市である静岡市の草薙球場は誰が見てもドーム球場には見えないんですよ。それで静岡市と政令市、県、それぞれが対等だということになりまして、平たく言うと静岡市も浜松市も要は対等なところにあると理解しますと、政令市が持てる施設は大体この程度だなと推察して当たり前だと思っています。
 ましてや草薙球場は、スタルヒン、沢村栄治という歴史と伝統に基づいたすばらしい球場だと思っていますし、10年前に私が県議会議長のときに草薙球場の改修をしました。そのときに巨人―ヤクルトの公式戦があって、原監督とヤクルトの小川監督と私と年配の女性でしたが沢村栄治さんのお孫さんがそれぞれの監督に花束を渡したときに沢村栄治さんの末裔の方がすばらしい球場ですねと言ったことを覚えています。それが政令市静岡市の持つ野球場です。当然浜松市も政令市で確かに人口規模で言えば静岡市より多少多いけれども、おのずとそういう政令市に造る野球場とはどういう形であるべきかは見えてくると思います。
 あわせて、最近何回か知事や議長、昨日の発言ですとほかの会派にも陳情に来ているとのことですが、そうそうたる皆さんがおいでになって多分ドームを造れと言ったと思うんですが、それでは議論にならない。例えば応分の負担というその応分という曖昧模糊とした表現がどういう意味を持つのかを理解していないんじゃないかと思っています。
 政令市と県の関係は対等なんですよ。辞書で引いたら五分五分って書いてあった。五分五分ということは浜松市も県も総額に対して同じ割合で負担して造るということ、そして静岡市にある草薙球場を手本として同等のものを造るということ、このぐらいのことは誰が考えても分かると思っています。
 確かにドームはすばらしい。私も視察に行きましたしそのよさは認めますが、あの巨大な施設で年間の公式プロ野球の試合が1試合、民間使用がどの程度の頻度を持つかは、あのどでかい施設では考えられないと思う。確かに10年、20年、30年先になればより高度化した使用方法があるかもしれないけれども、私の知り合いに聞くと、イベントはエコパのアリーナを使いたいとの意見が大半です。
 そういったことを考えると、政令市同士のバランス、そして県と市の対等、これは浜松市職員の方も平然と口にするわけで、都合のよいときだけ県にたくさん金を出してと言うのではなくて、日頃対等だと言っているのだったら、負担も対等にするのは誰が考えたって当たり前の話なんです。その点について、交通基盤部長に聞くのは酷には酷なのだけれども、どうぞ答弁願います。

○勝又交通基盤部長
 議会答弁でも申し上げましたが、昨日の都市局長の説明にも基本計画の素案でメイン球場については現在3案の併記とお知らせしてございます。
 使途の役割分担では、昨日望月都市局長から説明がありましたが、まず野球場以外の公園施設については、今後浜松市と県でしっかり協議しながら役割分担を決めていく説明をさせていただきました。
 メイン球場のお話になりますが、昨日配付したR6年2月議会建設委員会配付資料に2.2万人の多目的ドーム型の留意点という項目がございまして、そこの2点目を読み上げますと、地元(浜松市、経済界)や民間企業からの建設費、維持管理費の負担や再生可能エネルギー活用等による利用料金の提言と書かせていただいてございます。まだ野球場がドーム型に決まったわけではないのですが、我々の考えでは当然ドーム型となった場合は、浜松市にも負担を求めることは必要だと考えております。
 ただ、今後1案に絞り込んでいくことも昨日説明させていただきましたので、当然ながらこの負担についてもしっかりとした協議を行っていきたいという考えでおります。

○中谷委員
 絞り込んでいくのは結構だし、負担割合もお互いに話をして、同時進行型で常に浜松市と県でバランスをよく考えていただいて、何のための対等かをお忘れなくと申し上げておきます。答弁ありがとうございました。

 それでは恒例でございますので、今年度60歳の職員の方々を紹介させていただきます。毎年2月議会の表現とは違うのは定年延長制度を迎えるということで、何となく不自然な表現になっていますがお許し頂きたいと思います。
 では、紹介させていただきます。
 勝又泰宏交通基盤部長。昭和61年4月静岡県採用、新任は沼津土木事務所技師、平成28年4月沼津土木事務所次長、平成31年4月交通基盤部都市局長、令和5年4月現職。
 古屋政勝収用委員会事務局長。昭和58年4月静岡県採用、生活環境部統計課主事、平成23年4月交通基盤部管理局部付主幹、平成30年4月交通基盤部管理局経営監、令和4年4月現職。
 水野和彦交通基盤部建築管理局長。昭和62年4月静岡県採用、都市住宅部建築課技師、平成30年4月くらし環境部建築住宅局公営住宅課長、令和3年4月現職。
 石川達也交通基盤部参事。平成3年4月静岡県採用、都市住宅部営繕課設備室技師、令和2年4月交通基盤部建設支援局設備課技監、令和5年4月現職。
 岩崎泰克交通基盤部参事。昭和61年4月静岡県採用、下田土木事務所技師、平成31年4月熱海土木事務所長、令和5年4月現職。
 山本勉建築工事課長。昭和62年4月静岡県採用、藤枝土木事務所技師、平成30年4月沼津土木事務所技監、令和4年4月現職。
 影嶋圭司工事検査課長。昭和61年4月静岡県採用、静岡土木事務所技師、平成31年4月裾野市建設部長、令和5年4月現職。
 加茂勝久土木防災課長。平成元年4月静岡県採用、袋井土木事務所技師、平成30年4月島田土木事務所技監兼川根支所長、令和4年4月現職。
 以上の方々ですが、私が読み上げた順に現在のお気持ち、そして後輩に残したい言葉、思いや経験を踏まえて発言願いたいと思います。
それでは、勝又交通基盤部長からお願いいたします。

○勝又交通基盤部長
 ただいま2番委員から身に余るお言葉を頂きまして、誠にありがとうございます。
 本年度の建設委員会の最後にこうした機会を頂き、非常に感謝申し上げます。
 それでは、私から一言御挨拶させていただきます。
 今紹介がありましたように、昭和61年4月に新規採用で沼津土木事務所工事2課に配属されました。それ以降県庁勤務が18年、出先勤務が17年間ありました。清水市に港の関係で1年、沼津市に鉄道高架の関係で2年出向ということで、うまくバランスが取れた38年だったかなと思います。
 仕事の内容も道路事業、街路事業、港湾・漁港事業、変わったところで水産の漁場整備ということで浜名湖のアサリの漁場も造りました。先ほど申しました鉄道高架の関係で最後は頑張ったと。あと土木現場は小さいながらもいろいろ経験させていただいた経歴でございます。
 私の思いの中では、最初の勤務地の思い出が非常に強いです。実は伊豆中央道の江間トンネルは私が入庁する前年の昭和60年に完成しました。当時も今回も多分あったと思うのですが、沼津土木事務所工事2課は伊豆長岡町の担当と伊豆中央道を造る建設の役割のため、当時もいろいろ地域から言われていて、伊豆長岡町の担当でしたが函南町にも交通安全施設の現場を持っていまして、江間トンネルを通って2つの現場を行き来していました。新規採用のときと、今年の最後に交通基盤部長として6月議会で有料道路の料金の延伸や414号の静浦バイパスの関係で議員の皆様に議決に応じていただいたのですが、最初と最後が江間トンネルかと何か非常に縁を感じるものがあるなというのが、6月議会の頃の状況でございました。
 3年目になった当時は昭和63年で昭和の最後の時代で、議場で阿部議員からもありましたが当時はバブル真っ只中の状態の中で仕事をしていたのかなと。あまりバブルの感じはしなかったのですが建設が本格的に始まりまして、まだ技師だったのですがトンネル1本、小さい橋の工事も数本持たされて、本当に毎日昼間現場へ出て夜は仕事の繰り返しで、まさに24時間働けますかという状態で3年間を過ごしたことがございます。
 昭和から平成に代わり、今度は西暦2000年問題がございました。そのときは下田土木事務所にいて、何も起きやしないのになぜか知らないけれども当番で残されて、ぽかんと口を開けて紅白歌合戦を見ていたこともございました。また平成から令和になったばかりのとき、皆様も御存じのとおりエコパのラグビーの試合で静岡ショックがあって、その後台風19号が来て、御存じのとおりコロナの時代に入ったという、かなり時代の変遷を我々の世代は経験させていただいたと思います。
 自分の性格柄、せっかちなのか性分なのか分かりませんけれども、なぜか昔から忙しいところにいつも行って結構残業が多かったなと。工事は最初のそのトンネルが一番のでかい仕事で、あとの人生はほとんど調整のような仕事をずっとやってきたという思いがございます。本当に忙しくて、最後となる今回の2月議会も交通基盤部はなぜか29本という質問を頂きまして、最後の最後まで忙しいんだなという思いの中で議場では頑張っておりました。
 最後になりましたけれども、議場に出席させていただきまして思うところは、やっぱり議員の皆様は私たちの仲間だなという思いがあります。是非は大事だという思いで壇上に座らせていただきました。引き続き交通基盤部への御支援、御指導をよろしくお願いしたいと思います。最後にお礼の言葉とさせていただきます。
 あと後輩の皆様には先ほど言った思いですので、頑張って元気でやってくださいということです。以上であります。(拍手)

○古屋収用委員会事務局長
 ただいま2番委員から身に余るお言葉を頂きありがとうございます。感謝申し上げます。また午前中には、予想外に8番委員からも丁寧なお言葉を頂きまして恐縮しております。
 さて、お話があったとおり定年延長制度がスタートします。一応私は来年度も県職員として引き続き勤務する予定でおりますので、何か例年の流れからいきますと非常に御挨拶の立ち位置が難しいなと思っておりますが、せっかくこのような貴重な機会を頂きましたので、お時間を頂きたいと思います。
 そもそも私が県職員としてこうやって仕事ができているのは、本当にこれまで関わってきてくださった皆様のおかげでございます。正直言いましてよくぞここまで私を育ててくれたなと本当に心から感謝しております。これまであふれるような仕事の量だとか、難しい専門性のある仕事、責任の重さなどが重かったりとか、本当に心が折れそうなことが何度も正直ありました。しかし、最終的には当然家族もそうですけれども、多くの良き諸先輩、あるいは仲間、同僚がいてくれたおかげで、本当にここまでやってこられたなとつくづく思っております。本当に自分は人に恵まれたと、心の底から強運だったと思っております。
 さて、これまでの公務員人生を振り返りますと、一番貴重な経験として残っているのは、広報課に所属していた平成7年1月17日に発生した阪神淡路大震災の際に静岡県の第1次支援職員派遣隊の一員として兵庫県に行って、荷さばき作業に従事したことです。県庁からバスで出発しまして、警察の先導を受けながら11時間かけて兵庫県に行き支援物資の仕分けをしました。滞在期間はわずか4日間ではありましたが、その間にはみぞれに遭って寒い思いをしたり、余震に遭ってさすがにドキドキしながらも昼夜を問わない作業をしてきました。傾いた建物とか電信柱はテレビで見るのとは全く違い、本当に恐ろしいと思いました。また、帰りのバスの中であったかいホカ弁をみんなで買ったんですけれども、こんなにおいしいかと思うぐらい、あったかいものって大事なんだな、心の底からありがたいなと思いました。本当に貴重な経験をさせてもらいました。
 私もいろんなところに人事異動を繰り返してまいりました。様々な業務についてきましたが、今になって思うのは、やっぱり全ての経験は全然無駄じゃなくて、その経験は必ず自分を成長させてくれたなと本当につくづく思っています。仕事の内容だけじゃなくて、仕事の仕方だとか考え方、あるいは全然関係ないと思われるような事柄も、いつの間にか不思議なことにどこかでつながって役に立ってきました。私も先ほどお話ししたとおり残り1年ありそうですので、この1年はこれまでの経験を活かして頑張っていきたいと思いますし、若い職員の方々も多くの経験を活かして成長していただければなと心から思っております。
 私は行政職員でありまして、俗に言う事務職ですけれども、なぜか県職員生活の半分以上を交通基盤部関連のところに身を置いておりました。こうして建設委員会で最後に御挨拶させていただけることは非常に光栄でございます。ありがとうございます。また県議会議員の皆様におかれましては、交通基盤部部付主幹当時から大変お世話になりました。本当に心から感謝申し上げますとともに、できればもう1年、ぜひとも御支援と御協力をお願いしたいと思います。本当にありがとうございました。(拍手)

○水野建築管理局長
 先ほど2番委員から丁寧な御紹介を頂きありがとうございました。それからこのような機会を設けていただきまして、本当にありがとうございます。
 私は、先ほど御紹介していただいたとおり昭和62年に入庁して当時の都市住宅部建築課に入りました。現在のくらし・環境部の建築安全推進課に当たります。そこを皮切りに本庁では営繕部局、住宅部局、土木事務所、警察本部、がんセンター建設室、裾野市役所、危機管理部、建築職員ですのでいろいろなところに行きます。
 それぞれいろいろな思い出があります。営繕では警察署、高等学校、がんセンターなどの工事の担当をさせていただきました。住宅関係では県営住宅の管理、建設・改修、それから今大規模にPFIもやっていますが、それも晩年の頃にやらせていただきました。そのような中にありましてどこの部署でも決して順調に行ったわけではなくて、いろいろな思い出があります。
 そのような中で印象に残っていることとして、先ほど古屋収用委員会事務局長からもありましたが、入庁時には想定していなかった被災地の派遣があります。今年1月1日に起きた能登半島地震には、当局の建築や設備の若手職員も応急危険度判定や仮設住宅の建設業務の支援に行っております。私自身も4回ほど経験がございまして、一番最初の阪神淡路大震災は解体工事協会が解体支援に出向くということで、特殊なんですが一緒に行って現場で携わってまいりました。
 それから新潟県中越地震が10月に起きたのですが、とにかく12月頭ぐらいまでに応急仮設住宅を造れと指示が出まして行かせていただきました。
 東日本大震災当時は危機管理部におりまして、遠野市に設置しておりました県の現地事務所の運営をやらせていただきました。市町職員の方が大槌町や山田町に行って、毎日疲れて帰ってくるので食事の手配など準備をさせていただきました。
 熊本地震に応急危険度判定ということで出向いたときには、自分の業務を残っている先輩や同僚が引き受けてくれました。それは本当に感謝するところです。当然家族にも無理を言って行ったこともありますので、そういった協力があったことは本当に感謝しております。
 派遣先の業務によって違うのですけれども、現場は本当に混乱しています。派遣された自治体や被災自治体の方、場合によってはボランティアの方と協力して一緒に仕事をしなければいけない中で、何から手をつけていいか分からないとか、明日どうしたらいいのかという状況もありました。そういうときに一番思ったのは、初めて会っても一定の技術力や能力を持って、目的を決めて協力すれば仕事は前に進む。先ほど勝又交通基盤部長も言っていたのですが、とにかく目的意識を持てば前に進めると。そうすることによって成果を出してこられたと思っております。
 これは有事のときだけではなく、通常業務でも言えるんじゃないかなと。これは後輩の方たちに言いたいんですが、個々の能力を常に磨くことはもちろんですが、目的意識をちゃんと持って周りと連携すればいいと思っております。
 次に組織の話をさせてください。
 私は建築の技術職員なのですが、土木職員に比べて建築職員は少なくて、人数は5分の1から6分の1で部署も少ない状態の中で、先ほど言いましたけれども本庁の主な配属先が主に建築基準法に基づく業務を行なう建築行政、住宅行政は西館10階のくらし・環境部建築住宅局です。営繕業務、県有施設の建築に携わるところは、私のいる交通基盤部建築管理局でございます。これが東館13階と距離も部署も違う。できれば一緒がいいなというのが自分の気持ちです。当然災害が起きれば一緒に建築住宅局長と話をして、派遣の相談を連携しておりますけれども、対外的な話として技術的な連携は近いほうがより良く、国、都道府県、県内市町、関係団体の皆様といろいろ話をするときも、やはり一緒にしたほうがやりやすいです。これはあくまでも私見として捉えていただきたいと思います。
 最後になりますけれども、自分は37年間仕事をしてきたというより何とか切り抜けてこられたなと思っております。ここにいらっしゃる県議会議員の皆様、先輩、後輩、家族あってのことだと思っております。本当にありがとうございました。本日は、本当にこのような機会を与えていただいてありがとうございました。(拍手)

○石川交通基盤部参事(土木整備・建築設備担当)
 このような機会を頂き誠にありがとうございます。2番委員におかれましては、丁寧な御紹介を頂きまして感謝を申し上げます。さらに午前中には8番委員におかれましては、今年度初めての質問を頂きまして誠にありがとうございます。
 気がつけば33年たって今までのことがあっという間に思えます。まず健康で職務を全うできたことにほっとしております。これも皆様の御協力あってのものだと感謝申し上げます。
 私は、平成3年度に機械技師として県に入り、機械職としてほとんどを県有建築物の整備に関連する営繕業務に従事してまいりました。私はいわゆる事業課という部署にいたことがありません。また法や条例に携わる課にも行ったことはありません。そのためか議員の皆様との面識も数えるほどしかありません。
 そのようなわけで、皆様の前で話せるような内容はあまりありませんが、営繕一色だった公務員生活の中で印象に残っている話を2つほどお話しいたします。
 まず1つ目ですが、先ほどの紹介で営繕課設備室に初めに配属されましたけれども、今は東館13階ですが本館にありましてお堀側の今の職員組合の辺りにありました。まず入ってびっくりしたのが執務環境です。たばこの煙がすごくて全く見えないような状態でした。自分の席には工事の仕様書や監理指針という分厚い本が置かれていて、これが工事監理に当たってのバイブルでしっかり読みなさいという話なんですけれども、現場にも行ったことがないし、物も見たことがないので、仕様書を見ても全く頭に入ってこなくて苦労しました。
 それから2か月ぐらいたったところで、別館の建設が始まりまして、私を指導していた年の離れた主幹の方がそっちに行ってしまい、その方の持っている工事を持たされてしまいました。いわゆる青天の霹靂って感じで突然現場に行かなきゃいけない、しかも工事は完成近くのものなので業者さんと交渉しながら変更しなければならないのでとても大変でしたが建築や電気の担当はすごく協力的に相談に乗ってくれて、初めての工事でしたけれども安心してできました。
 そこで、1つの建物を造る上で建築、電気、機械の各職員が一丸となって取り組むことの大切さを学びました。
 2つ目は、大規模プロジェクトであるグランシップとがんセンターを続けて担当したことです。
 特にがんセンターでは、完成後の維持管理も担当したので、初期不良などの対応により、設計や工事で気づかなかったことが実際の運用で明らかになるなど、貴重な経験でした。
 このような経験があるからこそかもしれませんが、設備は施設が機能する上で欠かせない重要な要素であると確信しております。そして設備職員は快適な生活や効率的な業務を支え、安全な環境を提供する役割を果たす義務があると思っております。現在設備職員としての使命は一層重要性を増してきていると考えており、省エネや脱炭素の推進など、将来を見据えた業務が求められています。今後も後輩たちが柔軟かつ積極的に経験を活かし、県政の運営に貢献していけることを期待しております。
 最後になりますが、これまでの御指導と御支援に心より感謝申し上げます。ありがとうございました。(拍手)

○岩崎交通基盤部参事(静岡県建設技術監理センター所長)
 ただいま2番委員から御丁寧な御紹介を頂きまして、また発言の機会を頂きまして誠にありがとうございます。
 私は、昭和61年の採用でして土木職員として38年間勤めてまいりました。最初の勤務地の下田土木事務所をはじめとしまして、技師、主任として3カ所で9年間ほど現場担当をしてまいりました。
 当時から測量や設計は外部委託が主流でしたが、設計は自分でやりたいと上司に言いまして、じゃあやってみろと言われました。幾つかの現場で自分が描いた線で工事を発注してやってまいりました。まさにゼロからのスタートで何度も現場へ赴きまして、設計ができ上がり工事発注をしまして、工事契約は請負業者と協議を重ねながら、だんだんと構造物ができ上がる過程にわくわくしながら日々を重ねておりました。そしていよいよ完成したときには、充実感と達成感を味わったものです。そんな工事の中で難しい地質だとか障害物があった場合は、現場代理人の方と何回も話をしながら仕事を進めました。このように協議を数多くすることによって、自分が土木技術者として成長できたかなと考えております。
 ただ最近では、コンプライアンスや多くの書類作成などで現場へ行く回数が減っていると聞いております。警察用語に現場百回というものがあります。机上では分からないことも現場へ行ってこそ見える場合がございます。昔と仕事のやり方は変わっていますが、特に若手職員にはぜひ現場に行って施工者や設計者の皆さんと良いものをつくる、直すとの思いを持って、そして物をつくる楽しみを持ってほしいと思います。
 さらに、ルーティンで行っている業務は惰性で行うのではなくて、やっぱり違和感を意識しながら変える、減らす、なくすなどの視点で業務に当たることを若手職員に伝えたいです。
 本日は本当にありがとうございました。大変お世話になりました。(拍手)

○山本建築工事課長
 大変貴重な時間を頂き、また2番委員には丁寧な説明を頂き、どうもありがとうございます。
 私は、昭和62年の採用で37年間、建築技術職として務めてまいりました。この間グランシップの建設や平成19年に沼津市で開催された技能五輪国際大会のプロジェクトに携われたことが、非常に印象深い思い出として残っております。
 先ほど石川交通基盤部参事(土木整備・建築設備担当)の話がありましたグランシップの建設担当になったのですけれども、グランシップの設計、入札、工事着手から完成までずっと携わらせていただきました。皆さん御存じだと思うんですけれども、当時グランシップの東側に公園や調整池のあるところに現場事務所がございまして、建設会社、設計事務所、県の担当が常駐して一日中工事を監理していました。また工事の終わりぐらいには、見学者が非常に多くてほぼ毎日と言っていいくらい見学者の案内が仕事となっていましたので、県の事務所の朝ミーティングで、今日はこのコースを回って、このコースなら工事の状況で通れるといった調整をして案内した記憶が残っています。
 もう皆さんの記憶にないかもしれないですが、平成19年に沼津市で開催された技能五輪国際大会につきましても、大会の6年前から所管の所属に行って、会場計画の担当をしました。この大会自体は隔年全世界で開催されています。沼津市大会の前はオーストラリア、その前はフィンランド、その前はスイスだったんですけれども、普通は会場があって大会を誘致するのですが、沼津市の場合は誘致してから会場を何とかしろということで、テント張りの仮設の会場を、4年間ずっと計画していた変わった経験をさせていただきました。
 また、都市計画関係の所属に通算6年勤務させていただきました。建築職としましては割といろんなところで仕事させていただきました。
 また、先ほど石川交通基盤部参事(土木整備・建築設備担当)の話にもありましたが、最後の職場となった建築工事課は、当時は都市住宅部営繕課で、新規採用後の3カ所目で初めて本格的な建築工事の監理の仕事をさせていただきました。
 当時バブルの実感はあまりなかったのですが、高度経済成長期が終わってひと段落していましたが、改修工事もたまにありましたけれども、業務のほとんどが新築工事でした。現在私のいる建築工事課の今年度の仕事の件数は、8割ぐらいが改修工事や解体工事、2割が新築ということで、時代なのでしょうが、新築からストック活用に変わったんだなと実感しております。
 当時に比べると法令順守、業務の厳格化、あとこれが一番大きいかもしれないですけれども建設周辺住民の意識の変化がございまして、工事監理や設計に要する事務量が非常に多くなっています。私どもが担当だった頃とは違った苦労を現在の若い人がされていると感じております。
 私は、これまでの経験を通じて、前例にとらわれずに柔軟な対応を心がけてまいりました。社会環境の変化がますます加速する中で、これからは、目先にとらわれずしっかりと本質を見極めることを前提に、変えなくてはいけないこと、変えてよいこと、変えてはいけないことを選択し、業務の進め方を自ら変えていく意識を持っていただき、本県の営繕行政を初め、本県がますます発展していくことを願っております。
 最後になりましたけれども、委員の皆様におかれましては、今後も引き続き御指導をお願いしたいと思います。本日はどうもありがとうございました。(拍手)

○影嶋工事検査課長
 県議会建設委員会で過分なねぎらいのお言葉と挨拶の機会を頂きまして御礼申し上げます。
 昭和61年に採用され、36年間の県職員生活で最初に担当しました静岡市内の国道150号線の側溝修繕の現場から始まりまして、伊豆縦貫道の修善寺道路、平成10年の函南町の災害復旧など、県内土木施設の建設や復旧に発注者側の担当者として参加できました。
 担当当時は重複していろいろな工事を同時並行していましたので、日々の懸案事項にも追われ現場の完成に達成感を感じる余裕は当時はなかったのですが、最後に振り返りまして微力ですが小さい達成感を感じることができました。
 台風、豪雨など頻発化、激甚化する自然災害、急速に進む少子高齢化に伴う人材確保、官も民も建設業を取り巻く環境は非常に厳しくなることが予想されますが、引き続き県で各事業を担当される方々が良質な基盤を整備、管理されることを願っております。
 簡単ではございますが、これまで多くの方々に御指導、御鞭撻を賜り大過なく業務ができましたことに、建設委員会の皆様をはじめ関連した方々にお礼を申し上げますとともに、今後の御健勝を祈願して挨拶とさせていただきます。(拍手)

○加茂土木防災課長
 2番委員より御丁寧な御紹介を頂くとともに、発言の機会を頂き誠にありがとうございます。
 私は、市町村役場に3年間勤務の後、平成元年に土木職員として入庁しました。最初の勤務地は袋井土木事務所で太田川ダムを建設するための特設課であるダム建設課に勤務しました。課長、主任、技師の3人だけの体制でのスタートでした。太田川ダムを建設するための100メートル級のボーリング調査や測量及び設計を進めるとともに、水没予定地の住民の方々との話合いなど、県庁、事務所、森町役場と一丸となって仕事をしたことが今でも新鮮によみがえってきます。
 河川関係で印象に残る仕事では、佐鳴湖浄化事業があります。平成7年から9年度に浜松土木事務所で湖の底泥をしゅんせつする仕事に携わりました。しかしながら、なかなか佐鳴湖のCOD値が下がらず、無駄な事業だと言われたりすることもありました。当時は汚れている底泥を除いているわけだから絶対にきれいになる、きれいにしようという思いで仕事をしました。おかげさまで平成19年頃COD値が10を下回り、全国ワースト1を脱しました。環境汚染というものは汚した時間だけ回復にも時間がかかると思いました。
 河川防災関係、企業局などの水関係の職務が主でしたが、平成22年から3年間経営管理部自治行政課に在籍したことも印象が強いです。地方分権で市町村への権限移譲を推進するとともに、県と政令市の協議もやり政令市からの強い要望、圧力を感じたものでした。
 また、選挙事務も経験しましたが、平成23年3月11日には県議会議員選挙の投票用紙の印刷を県東部にて印刷の立会い中に東日本大震災が起こり、かなりの揺れを受けまして印刷工場が止まってしまいました。夕方何とか再開し夜中の2時過ぎに印刷の版を潰して完了しましたが、自宅に帰宅するのが午後になったことを覚えております。
 最後の2年間は古巣の土木防災課でありましたが、昨年度の台風15号、今年度の台風2号と大きな災害が発生し、それに伴う対応で河川砂防局全体が大変忙しい日々になったことは、これまで災害業務に多く携わってきた者として生涯忘れられない2年間となりました。
 残る皆さんへ贈る言葉は特にありませんが、振り返った感想としていろいろな仕事を経験することができたこと、自分の信念をしっかりと持ってやれたことから公務員生活に悔いはありません。
 最後になりますが、御指導頂きました議員の皆様、それからお世話になりました上司、同僚、後輩職員に感謝申し上げます。長い間ありがとうございました。(拍手)

○中谷委員
 8名の方々、本当にこれまでありがとうございました。そしてお疲れさまでした。現在の職にとどまってもう少し頑張るという方、それから職を退く方は引き続き県民のために働かれることと思います。御健康に留意され県政発展のために後進の指導も含め仕事に励まれますよう、改めて心からお願い申し上げます。ありがとうございました。

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