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委員会会議録

質問文書

開催別議員別委員会別検索用


平成30年2月定例会厚生委員会 質疑・質問
質疑・質問者:天野 進吾 議員
質疑・質問日:03/08/2018
会派名:自民改革会議


○山本委員長
 休憩前に引き続いて、委員会を再開します。
 質疑等を継続します。
 発言願います。

○天野(進)委員
 このたび、大変長らく行政にかかわっていただきました山口健康福祉部長、壁下敏弘さん。そして杉井邦好さんは私の後輩だということを昨日初めて知りました。大変に心強く思ったところであります。
 そのお三人の皆さんが今、60歳の定年を前にして思うのは、恐らく日本の大きな行政の誤り、それはこの定年制にありと思っていらっしゃるのでしょう。私もそう思います。実は私は振り返ってみますと石川知事の時代の一般質問の中で、60歳定年はおかしいと言ったことがあります。そのときからおかしいと思っているのが、それから何年かたった今なお60歳で定年になることに対して、行政としても大きな損だと思っております。いずれにしろ近い将来、だんだんとこれが直っていくでありましょう。
 しかしそういう制度でありますから、それぞれの3人にはこれまでの思いを語っていただきたいなと思っております。そういう点で山口健康福祉部部長からよろしいでしょうか。ほんとに長いことありがとうございました。
 山口さん、壁下さん、杉井さんの順番でそれぞれお願いをしたいと思います。よろしくお願いします。

○山口健康福祉部長
 定年退職に当たりまして、このような場でまた一言、お話をさせていただける機会を持たせてもらいまして、まことにありがとうございます。
 思いとのことですので、私思いますと35年と3カ月。ちょっと中途半端ですけれど私が入庁したころは昭和58年1月に入庁させていただきました。
 大きな転機といたしましては、私は財政課が長うございました。財政課に約9年いましたが、そこで政策をつくることのおもしろさ、そして行政とは非常に理論、理屈で成り立っていまして、それを県民の方々に尽くすためにも理論、理屈をしっかりしなければいけないということを随分学ばさせていただきました。
 そして、もう1つ大きな転機といたしましては、商工労働部のときに部付をやらせていただきました。その部付で行政のやっている机上の理論を実際にやっていくのは、県民の代表でございます議員の皆様方であるということが本当にこの部付の間でよくわかりました。机上の学問はあくまでも机上の理論でございまして、それに血を入れこの理論を県民のためにしている、また実現性を持たせるのがまさに議員の先生方のお仕事ということがよくわかりました。
 思い起こしますと、私は平成14年と15年に部付をやらせてもらいましたが、商工労働部でしたので、そちらで今いらっしゃいます天野進吾先生とふじのくにの林先生と一緒にやった思い出がございます。本当にあのとき、先生方の指導によりまして、行政は県の私たち職員と県民の代表である議員の皆様方、それでやっていくんだなというのがよくわかりました。
 続きまして、もう1つの転機としましては、企画部に行かせていただきまして、総合計画をやらせていただきました。計画というものは非常に大事だということがよくわかりました。私はその前に行政改革室にもいまして、企画で今、非常に話題になっておりますふじのくにづくり白書ですか、そのときに丸ごと評価する仕組みも入れさせてもらいました。というのは総合計画は形だけつくって、すぐ捨ててしまうのが今までのパターンだったような気がしますが、総合計画を常に計画書として身近においてやるためには、総合計画そのものに関心がなければならないと思いまして、この総合計画を評価する意味で、総合計画を丸ごと評価できる仕組みを当時つくった覚えがございます。
 そして、企画部のときにはもう1つ、物流の関係もやらせていただきました。内陸フロンティアの絡みと一緒に物流関係をやらせてもらいまして、物流もこれから静岡県ではもっともっと盛んになるという大きな期待を持ってつくらせてもらいました。ただ先ほど言いました机上の学問で終わってしまったのが少し残念だなと思っております。
 そして、健康福祉部には25年ぶりに来させていただきまして、その間は、先ほど申し上げましたように、どちらかというと管理部門ばかりにおりました。25年ぶりに健康福祉部へ部長代理として来させてもらいました。そのときに一番驚いたのは何かといいますと、医療の知識や役割というものが、健康福祉部にいると物すごく大きくなっていると実感いたしました。今まで医療はドクターのもの、非常に高度なものであったものが、県民のためにどのように使うか非常に一般的になってきた。これは医療ばかりでなく知識そのものがインフレ化というのですか、非常に手に入りやすくなったということがあります。そこで思いましたのは、医療の知識を県民のために役立てていくためにはどうしたらいいか。知識は先ほど言いましたように非常に得やすくなりましたが、一方得にくい知識とは何かといいますと、実地からの知識です。知事も現場主義とおっしゃっていましたが、それが非常に大事だなと身をもって感じたところでございます。
 県民の代表でございます議員の先生方は毎回、選挙のときになりますと何万という方々に票を書いてもらいます。先生方はこの机上の知識ではなくて、県民一人一人の意見を聞きながらの知識を持っておりますので、その方々としっかり私たちは議論をさせていただき、御指導、御鞭撻をいただき、しっかりとやっていかなければならないと思った次第でございます。
 そういった面では、当時の部付でやったこと、行政改革室でやったこと、財政課でやったこと、そして企画部でやったことが非常に役立っているなと思っております。
 それと、もう1つ健康福祉部に来て思ったのは、理不尽というものが非常にありまして、私たちがかつて感じた理不尽とは違って、非常に多くの種類の理不尽がありまして、その理不尽を取り払う元気がない。理不尽を簡単に受け入れる状況があるということにすごくショックを受けました。この理不尽、例えば貧乏は連鎖すると簡単に言われています。昔は違いました。貧乏でしたらみんなで頑張って次は金持ちになろう、しっかりした生活を送ろうと。そういう雰囲気だったのですが、今の健康福祉部は医療の知識が非常に広まっているということとそうした理不尽が非常に多くあって、その理不尽を取り払う元気がないのを非常に残念に思っております。そうしたことから健康福祉部長をやらせていただきまして、そういった理不尽を少しでも解消したいというのが3年間でできたかどうかわかりませんが、やってきたことでございます。
 もう1つは、この医療の知識をいろんな面でしっかりと役立てることも3年間しっかりやってきたと思っております。そして今回退職を迎えるに当たって健康福祉部の皆様方がしっかりやっていっていただけると確信しておりますが、健康福祉部は個々の仕事ではございません。組織でやっていく仕事だと思っております。そうした面で幹部の方々はしっかりと県民の意見を聞いて、職員の意見も聞いて、威張らず皆さんとともにやっていく、成果は組織でやった結果だと思って謙虚な気持ちで仕事をやっていくことが、健康福祉部こそ大事ではないかと思っております。
 また健康福祉部は非常に団体が多くございます。団体の方々ともめたりすることもあるかもしれませんが、県民のため県民の幸せという意味では、団体の方々と私たちが目指すのは全く同じでございますので、こういった団体の方々はそれぞれの団体ですので、少し偏ったところがあるかもしれませんが、私たち行政マンはそういった団体の方々の意見をしっかり取り入れて、普遍的にやることが役割でございますので、健康福祉部の職員の皆様方には、それこそ各会派の代表でございます先生方の御意見、団体の方々の意見を聞きながら、しっかり団体の意見を取り入れるような連携を中心とした施策に取り組んでいってもらいたいと思っております。
 私は部長代理として来てから4年間、一番気を使ったのは、県医師会との連携、そして浜松医科大学との連携、それと総合病院との連携。総合病院は機構ではございますが、この3つが先ほど言いました医療の知識を十分持っていまして、医療の知識の宝庫でもございます。また医療の知識を具体化できる機能でもございますので、この3つとの連携はしっかりとやって、県民のためにいい施策を打っていっていただきたいと思っております。
 少し長くなってしまいましたが、35年間、皆様方のおかげで非常にいい県庁生活を送れたなと思っております。県庁はやめますが、県と関係するような部門、福祉と関係するような部門に携わっていきたいと思っておりますし、そういう機会も多々あるかと思います。そのときもいろんな御指導、御鞭撻受けまして、県民の方々の理不尽をなくすような仕事、県民の方々が少しでも満足していただけるような仕事、県民の方々が安らぎと安心を覚えるような仕事、そして県民の方々が幸せになってもらえるような仕事に微力でもありながらしっかりと取り組んでいきたいと思っています。本当に皆様方、御指導、御鞭撻ありがとうございました。(拍手)

○壁下健康福祉部理事(医療介護連携対策・社会健康医学推進担当)
 昭和55年に入庁して38年間、県の職員としてやってまいりました。その間いろんな仕事に携わりましたけれども、記憶に残っている思い出に残っているものとして1つは、今はがんセンター局がありますが、昔はなくて今のがんセンター局長の小櫻さんや事務局長の池谷さんと一緒に平成13年、開院の前年、前の大須賀副知事のもとでがんセンターをつくる最後の仕上げをやりました。そのときは働き方改革にはほど遠い、土日なしいつも終電という生活を2年ぐらいやりました。1年準備をしまして、平成14年から5年間、静岡がんセンターのある長泉町に行きまして、立ち上げをしました。静岡がんセンターという病院は全国でも珍しい、全くゼロから大規模病院を立ち上げるということで、私は医師の採用をしておりましたけれど、全国から医師に集まっていただき、看護師やコメディカルの方々にも集まっていただき、さらには県庁の事務屋が事務局としていく。その周辺を支える業務をやっていただくために、いろんな方々に加わっていただいて、たしか当初から1,000人弱ぐらいの人が一遍に集まって、いい病院をつくろう、新しい病院をつくろうと、がむしゃらにやってきた覚えがあります。何をやっているかよくわからない中でやってきて、もう15年たったというのが非常に私個人的には感慨深いものがあります。
 それから医療に多く携わるようになりましたが、もう1つ思い出としてありますのは、昭和55年入庁と言いましたけれど、ちょうど入る少し前、2年ぐらい前ですかね、東海地震が叫ばれ始めまして、静岡県庁に行くと友達に言いますと、そんな地震の起こるところへ戻らなくてもいいじゃないのかと言われたことを覚えております。幸いなことに皆さん御承知のとおり、静岡県内では無事、私は逃げ切れたかなと思いますが大規模災害はなかったわけです。
 平成7年に起きました阪神淡路大震災の時は、ちょうど地域福祉を担当しておりまして、発災の翌週だったと思いますけれども、ボランティアコーディネーターとして兵庫県の社会福祉協議会にありますボランティアセンターにお手伝いに行かせていただきました。阪神淡路大震災はボランティア元年と言われており、ボランティアが盛んになったわけですけれども、右も左もわからない言葉もうまく通じない中で何か言われるままに、何とか少しでもお手伝いしたいと動いていた記憶があります。
 さらにがんセンターにいたときの平成16年に新潟県中越地震が10月にございました。このときにはがんセンターのドクター2人、ナース2人、あと薬剤師と6人でチームをつくりまして、当時のがんセンター局長に、おまえ阪神淡路大震災の時も行っているからおまえがみんなを連れていってこいということで、医療救護チームとして震源地である川口町に入って、巡回診療と救護所の運営をしばらくやった覚えがあります。そのときも災害というのは全く非日常的なもので医療がすごく大切だなと。まずは超急性期には医療が第一だと痛感したのを覚えております。
 さらにもうすぐ7年になりますけれども、東日本大震災のときには、ちょうど県の医療審議会を駅前のホテルでやっているときに揺れまして、会議を途中で中止したことを鮮明に覚えているんですけれども、当時地域医療課長をしていたものですから、先生方もすぐに行きたいということでDMATの派遣から始まりまして、さらに3月の下旬から5月の下旬にかけて県内の多くの病院に協力していただいて、岩手県宮古市に常時2チームずつ医療救護チームを送るということで、その調整をさせていただきました。そのときには自分も行きたいと言ったのですけれど、部下からだめですと。残ってチームが切れ目なく続くように県内の各病院長にお願いしてください、それが役目ですと言われたことも覚えています。そのときには医療救護チームの経験がある人間や行ったことのある人間がいないわけで現地でどのような活動をするのかとか、どのような物が必要かとか、そういったものについては、先ほど申しました中越地震に行った経験が非常に生きたと思っております。
 現在、私は危機管理部理事の災害医療担当も一昨年から兼務しております。災害医療につきましては、東日本大震災以降、県内の医療関係者に御協力いただいて、現在災害拠点病院が県内21、DMATも49チーム、さらにもうすぐ聖隷浜松病院も加わってくれるとのことで、全国に誇れる災害医療の支援体制がとれているかと思います。
 また一方、宮城県で活躍した災害医療コーディネーターの制度も東日本大震災の後に県内で導入いたしました。そういったことで災害医療について少しはいろいろ貢献できたかなと思っております。この3年については医療介護連携対策担当ということで、特に地域包括ケアを担当してまいりましたけれども、本委員会でも説明をさせていただいたように2025年に向けて保健医療計画と長寿社会安心プランを同時にスタートさせることで準備を進めてまいりました。ぜひ委員の先生方にも御協力いただいて、計画が順調に進むように祈っております。ちょっと残念なところもございますが祈っております。
 定年とのことで県を離れることになりましたが、この分野が長いですので、この分野のどこかで地域包括ケアを進める仕事につきそうでございます。仕事につかなくても、元気な高齢者いわゆる壮年一人一人が活躍しないと地域を支えていけません。こういう仕事を経験していますので、仕事を離れた以降もぜひ地域のために貢献してまいりたいと思っております。
 そのためには、健康福祉部が長いですが、不健康な生活ばかりしてきましたので、まずは自分の生活改善をやりながら、もう少しお役に立てればと思っております。どうも本日はありがとうございました。(拍手)

○杉井生活衛生局長
 早いもので、薬剤師として静岡県職員に採用されて36年となりました。この間、薬事はもちろん環境とか食品衛生、それから生活衛生関係、試験検査、そして変わったところでは広報課広聴係、それからファルマバレープロジェクトの推進を7年ぐらい担当しました。構想の策定は企画部で進めておりましたけれども、それをバックアップするような形で構想をまとめて、それから実際にファルマバレーセンターをオープンさせるような仕事を担当させていただきました。
 私は薬剤師ということで、薬剤師法の第1条に薬剤師の任務が定められておりまして、薬剤師は、調剤、医薬品の供給その他薬事衛生をつかさどることによって、公衆衛生の向上及び増進に寄与し、もつて国民の健康な生活を確保するものとすると定められております。行政薬剤師で調剤の経験はないのですけれども、公衆衛生の向上と県民の健康な生活の確保を念頭に置いて、職務に当たってきたつもりでございます。
 県議会で一番印象に残っているのは、初めて薬事課長になって、初めて説明者として臨んだ平成26年6月の定例会の厚生委員会で、当時危険ドラッグを吸入して死亡事故を起こした池袋の事件があって、危険ドラッグの乱用が社会問題になっておりました。県内にも当時販売店が6店舗ありまして、その対策が喫緊の課題となっておりました。その厚生委員会で一番初めに質問に立たれた委員が、危険ドラッグについて一問一答方式で質問をされて、持ち時間1時間を全部危険ドラッグということで、後で数えたら35回立っていました。ずっと立ちっ放しならもう少しいろいろ議論できたかなと思いますけれども、立ったり座ったり立ったり座ったりで、それに加えて当時の宮城島健康福祉部長が2回答弁していますので計37回ですか。そういうことで他の委員会のことはわからないですけれども、結構記録的な回数じゃなかったかなと。答弁に立つときに手の挙げ方もまだわからないような状態で最初にそういう質問があって、委員会デビュー当日に委員の皆様には顔と名前をしっかり覚えていただいたことがございました。その後12月議会で皆様の御協力をいただいて、県民の健康な生活を守るために、全国でも厳しい規制をかけた静岡県薬物の濫用の防止に関する条例が成立をして、県内の危険ドラッグ販売店を撲滅することができました。本当にありがとうございました。
 壁下理事からもお話がありましたけれども、ちょうど私が大学に入った年の昭和51年8月に東大の当時助手だった石橋先生が東海地震説を発表して、それから静岡県の地震対策が大きく進んでいったかと思います。私が広報課にいたときの平成7年1月17日に阪神淡路大震災があって、そのときに神戸市内の大学に行っているお子さんが結構県内にもいらっしゃって連絡がとれないとのことで、当時広報課広聴係は県庁の総合案内電話になっていて、そういう連絡がとれないという親御さんからの連絡がかなりの数、来ておりました。こちらも情報がわからないですけれども、その当時の広報課ではパソコン通信ができ始めていち早く導入していて、そこから神戸市のどこどこアパートがつぶれているとかの情報が入ってきて、その情報をお伝えして本当はどうなっているのかわからないですけれども、自分のお子さんがいるアパートの名前がないとのことで、少しほっとされるようなことがありました。
 その後、平成23年3月11日に東日本大震災があったときに非常に大きな災害でしたので、当時私は沼津市で全然関係のない仕事をしていましたが、自費で向こうに調査に行きました。その時に石巻市の薬剤師会の方とお会いしたときに、その人に何を言われたか。私は静岡県ですと言ったら、宮城県は何もしてくれなかった、何で何もしてくれないんだと問い合わせをしたら、それは要請がないからだと言われたと言っていました。東日本大震災の被災3県に8,000人ぐらいの薬剤師が延べで入っていましたが、もし静岡県で東海地震あるいは南海トラフ大地震が起きたときに、外から大勢の応援を受けないと多分、医療救護が回っていかないだろうとのことで、先ほど壁下理事から災害医療コーディネーターの話がありましたけれども、医薬品とか薬剤師の配置を調整する災害薬事コーディネーターという制度を全国で当時3番目だったと思いますがつくりました。そのころから静岡県の災害薬事コーディネーター制度が全国から注目をされていて岐阜県とか愛知県などいろんなところに講演に行かせてもらいました。東海地区はほとんどそういう制度ができていますけれども、全国の学会にも所属をして、その制度を紹介しながら他県に広げていったことがあります。
 今回、委員会資料93ページにモバイルファーマシーというものがありますが、これはこれから在宅医療をやっていく中で、薬剤師に無菌調剤の技術を研修してもらうために整備しているのですけれども、平時はそうですけれども災害時には臨時の調剤所になる車になっています。そういった意味で災害対策にいろいろなことをやってきたかなと思っています。後輩の薬剤師の職員には、こういう大規模災害時の医薬品の確保だけでなくて、公衆衛生全般の活動が求められるので、常にそういった対応を念頭に置くように常日ごろから伝えているところです。
 これまでいろんなことをやらせてもらって、それもいろいろできたのは温かい上司、それから優秀な部下がいて初めてできたのかなと。また県議会の皆様の御協力があって自分の力をしっかり発揮できたのかなと思っており、私にとっては最高の幸せだったかなと考えております。3月いっぱいですけれども、4月からは外部から県の業務を支えていきたいと考えております。皆様に本当にお世話になりました。最後に皆様の御健康と御健勝、御活躍をお祈りしまして、御挨拶とさせていただきます。どうも長い間ありがとうございました。(拍手)

○天野(進)委員
 ありがとうございました。
 今、お三方がお言葉を述べられましたけれども、山口健康福祉部長には何といってもマムシの山口というあだ名がついているぐらい、食いついたら離さないという、その根性でこれまで頑張ってくれた。恐らく私は静岡県政の中に山口さんの歩んできた足跡は、確実に将来ともに残るだろうと思っております。ですから、どうぞこれからもすばらしい人生、自分の人生を歩んでいただきたいと思います。
 また、壁下さんについては、本当に人生の主なところはほとんどがんセンターや健康福祉部にかかわってきた人生だったと聞かせいただいております。しかし恐らくそれもあなたの人となり人間性がそれをもたらしたものだろうと思っております。どうぞこれからの社会の中で、必ずやあなたに対して大きな力を求める、そういう方々がいらっしゃると思っております。どうぞこれからも頑張っていただきたいと思います。
 そして最後になりましたけれども、杉井さんについては先ほど申し上げましたけれども私の後輩で、こういうところに立ってしゃべってくれる方がいたことは、私自身うれしく思っております。薬事や環境衛生のスペシャリストと呼ばれている杉井さんです。その間、大変勤勉にして実直そして後輩の面倒もよく見てくれた方だと言われております。どうぞそのパーソナリティをこれからも維持し続けてすばらしい人生を、そしてこれから長い人生を頑張っていただきたいと思います。以上本当にありがとうございました。お礼を申し上げます。

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