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委員会会議録

質問文書

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令和2年2月定例会危機管理くらし環境委員会 質疑・質問
質疑・質問者:竹内 良訓 議員
質疑・質問日:03/10/2020
会派名:自民改革会議


○竹内委員
 一括質問方式で1問お伺いさせていただきます。
 くらし・環境部におきましては、今年度末3月31日に鈴木くらし・環境部長、伊藤政策管理局長兼総務課長、織部環境局長、平松住まいづくり課長、河合環境ふれあい課長、以上5名が残すところあと3週間で無事定年退職を迎えると聞いております。
 ここで皆様方を改めて紹介いたします。
 鈴木亨くらし・環境部長におかれましては、昭和59年に入庁。私や9番委員、6番委員とほとんど世代が重なっておりますけれども、この年はロスオリンピックで山下現JOC会長が金メダルを獲得した年だと記憶しております。
 都市住宅部の住宅企画課を皮切りに36年間、財政課で延べ9年間御活躍された後、くらし・環境部で廃棄物リサイクル課長、危機管理部で危機政策課長や危機報道監、そしてくらし・環境部で部長代理、部長を歴任されました。
 そうした中、危機管理部では東日本大震災を契機とした本県の防災対策の抜本的な見直しに取り組まれ、くらし・環境部ではSDGsの推進、海洋プラスチックごみ問題、そして今渦中の問題でありますリニア中央新幹線の対策といったように、鈴木亨くらし・環境部長が異動になったところに課題がついてくるのか、課題があるところに部長が行かれたのか定かではありませんけれども、そのような課題に対して迅速かつ的確に対応して来られました。
 これらは県民の暮らしとほかの部署よりも密接に結びついた県民全てにかかわる課題に対して、鈴木くらし・環境部長が強いリーダーシップを発揮され多大な貢献をされてきました。心から敬意と感謝を表したいと思います。ありがとうございました。
 続きまして、伊藤和人政策管理局長兼総務課長。
 入庁は昭和57年です。昭和57年は東北新幹線、上越新幹線が開業した年と記憶しております。商工部中小企業課を皮切りに県庁に入庁以来38年、経済産業部水産振興課参事、くらし・環境部管理局経理監、管理局長、政策管理局長を歴任されました。
 この6年間は経理関係の豊富な経験を存分に発揮され、部内各局の施策に横串を通しながら効果的な施策の構築に寄与されると同時に、移住、定住の促進という最も我が静岡県にとって大切な取り組みにも積極的に取り組んでいただいたと承知しております。
 人事、予算を初め、さまざまな面において屋台骨として部全体を支えていただきましたことに心から敬意と感謝を表したいと思います。ありがとうございました。
 織部康宏環境局長は、昭和58年に入庁されています。私にとっても懐かしいんですけれど、この年は東京ディズニーランドが開園した年であります。
 総務部磐田財務事務所を皮切りに37年間、くらし・環境部管理局経理監、環境局環境政策課長、環境局長を歴任されました。環境行政の推進に長くかかわり、豊富な知識と経験また環境に対する熱い思いを当委員会でも存分に発揮していただきました。
 特に、今年度はリニア中央新幹線対策の最前線で、いつもテレビで拝見しておりました。その真ん中に立ってまさに獅子奮迅の御活躍をいただいたことに心から敬意と感謝を表するとともに、来年度以降もこの問題に対して逃げずにすぐそばでやっていただくことを期待しております。本当にありがとうございました。
 続きまして、平松勇人建設住宅局住まいづくり課長におかれましては昭和63年に入庁。この年は東京ドームが完成した年でございます。我々の世代は東京ドームというよりも後楽園球場というのが懐かしい思い出ですが、入庁以来建築職として県庁に奉職され、袋井土木事務所を皮切りに32年間、浜松土木事務所技監、くらし・環境部建設住宅局建設安全推進課建築確認検査室長、住まいづくり課長を歴任されました。
 住まいづくり課では、少子高齢化やライフスタイルの多様化などの対応のため、市町と連携して豊かな暮らし空間創生住宅地の拡大や美しい家並みの整備を推進されたほか、大きな課題である空き家対策などにも精力的に取り組んでいただきました。
 長きにわたる本県の建築行政への貢献に心から敬意と感謝を表したいと思います。お疲れさまでございました。
 最後に河合征彦環境局環境ふれあい課長。
 河合征彦環境ふれあい課長は、入庁は昭和60年。電電公社、日本専売公社の民営化で、株でたくさんもうけた日本国だったと思います。私にとっては高校の先輩でもあり大変尊敬する先輩でございます。
 最初に農林水産部の北遠農林事務所を皮切りに林業職として35年、経済産業部では農林技術研究所森林・林業研究センター技監と管理局技監、そしてくらし・環境部では環境局自然保護課鳥獣捕獲管理室長、環境ふれあい課長を歴任されました。
 動植物に関する豊富な知見を存分に生かして事業課だけでなく企画、政策部門でも活躍され、環境ふれあい課では環境団体と連携した緑化の推進、芝生の普及、県立森林公園の再生整備など林業職の経験を現場で生かしながらも、県庁の中でさまざまな事務職の方々とともにその推進業務に当たっていただいたこと、心から感謝を申し上げたいと思います。
 これからも、ぜひ県庁の仕事を離れても逃げずに県とかかわり合いを持っていただきたいと思っております。ぜひ浜松に戻ってきていただきたいと思っております。
 それでは、退職される5名の皆様方にこれまでかかわってこられた県行政を振り返り、今後の県庁の後輩たち、あるいは我々県議会への御意見も踏まえて一言ずついただけたらありがたいと思います。

○河合環境ふれあい課長
 2番委員には身に余るお言葉をいただいてまことにありがとうございます。私は浜松出身と紹介いただきましたけれども、子供のころから生き物好きで中学校くらいから野鳥観察にはまりまして、各地に鳥を見に連れて行ってもらいました。ちょうどそのころ経済成長が日本を覆っておりまして、各地で開発であるとかいわゆる自然を改変する時代だったんですけれども、鳥が減っていく状況の中で何とかしたいなと思っていました。
 その中である本に出会うんですけれども、レイチェル・カーソンというアメリカの海洋学者が書いた「沈黙の春」――「サイレントスプリング」という本です。どういう話かといいますと春が来たのに鳥の声が聞こえない。だからサイレントなんですけれど。なぜかというといろんな化学物質により生体濃縮というプロセスがあって、虫を食べた鳥が死んでしまいましたというお話だったのですが、これは大変なことになったと。自分が見る鳥がいなくなるのは大変なことだということで、大学もそういった環境関係の大学に行きました。当時は先ほどお話が出ていましたけれどシカやカモシカ、クマを見たことなかった時代ですね。ですからそういう動物をふやそうという研究室に入りまして、自分は鳥の研究をしていました。そんなことをしているうちに就職のときがやってきてました。うかうかしていたのでどんな企業にも入れそうにもないなと思ってるところ、親から県にこういう職があるよと紹介されて中身も知らずに県職を受けています。
 林業職で採用されたんですけれど、そんなうかうかですので最初に天竜の農林事務所に配属されましてそこで林業をたたき込まれたわけです。そこからあとは研究センターや環境局を出たり入ったりしてまして、環境系と研究センターで3分1ずつですけれども、そんな中で最後の8年間は研究センターと環境局を行ったり来たりしていました。その中で自分の得た経験をある程度県の行政の中に反映できたらなと思っていました。何も知らずに県の職員となって最後こんなことを言うのもあれなんですが、やりがいのある仕事だと思っています。
 35年間でございますけれども、長い間まことにありがとうございました。(拍手)

○平松住まいづくり課長
 2番委員に身に余るお言葉をいただきありがとうございました。
 私は元国鉄職員で、国鉄が分割民営化される際に静岡県に採用していただきました。もう本当に感謝しております。
 ここまで本当に上司の皆様や先輩、後輩の皆様さまざまな方々に支えられて県職として32年間務めてきました。また当委員会では昨年度から2年参加させていただきましたけれども、非常に緊張してまともな回答ができずに申しわけございませんでした。
 本当に貴重な皆様からの御意見、御提言をいただきまして今後施策に、後輩の皆さんに伝えて生かしていきたいと思っております。
 私の公務員生活本当に感謝の一言に尽きます。本当に長い間お世話になりました。ありがとうございました。(拍手)

○織部環境局長
 本日は大変ありがたいお言葉をいただきましてありがとうございます。
 私は昭和58年に県に入りまして平成14年ですか、そのときに初めて当時環境森林部という環境と森林が一体となった部ができたときに経理係長として入りました。以降12年間環境行政に携わってきまして、環境局長というポジションで県職員として1つのけじめをつけるということで、環境行政に対する思いはかなり強く持っているつもりであります。
 環境森林部に入った当初は、21世紀の初頭ということで環境の世紀と強く言われておりました。でも当時はまだ環境に取り組むことは社会的貢献的な意味合いが強くて、熱心に取り組んでいる方はいるんですけれどプラスアルファ的にやられているイメージがありました。
 最近は気候変動というか、そういう形で身近に環境問題が迫っていることもあって、かなり熱心に取り組まないといけない状況に変わってきております。EMS投資というのがございまして、そういう取り組みをしないと評価されない時代になってきた。やっとそういう環境に対する取り組みが出てきたということで、まだまだ日本はおくれていますけれども、今後とも環境と経済発展は両立するものだという考えをずっと持っております。
 今後も逃げずにということですので、4月以降も逃げずにそういったものに取り組んでいきたいと考えております。
 今後ともまたいろいろと委員の皆様方におかれましても御指導、御鞭撻いただけますようによろしくお願いいたします。本日はどうもありがとうございました。(拍手)

○伊藤政策管理局長兼総務課長
 身に余るお言葉をいただきましてありがとうございます。定年を迎えるに当たりまして一言申し上げたいと思います。
 私は比較的小さいころから、親から公務員になれとずっと洗脳されてきました、と申しますのは、私の親が商売、小売業をやっていまして、その不安定さや大変さから子供たちにはぜひ安定度抜群の公務員になるようにという強い願望を持っていたからです。
 その結果、私の兄は教員として学校に、私は役所に進むことになりました。そうはいってもあまのじゃくな私は親の言うとおりに公務員になるのはおもしろくないと思いましたので、東京で会社訪問とかをやっていました。あるとき親から、静岡に帰ってくれば家の建設資金を援助してやるという移住就業支援金とは比べ物にならない強力な移住促進策を提示されましてあえなく撃沈しました。
 県に入ってからの業務を振り返らせていただきますと、一番記憶、印象に残っているもの、私の仕事感のベースともなっておりますのは静岡空港の建設事務所での経験です。
 入庁しまして10年余りたったころでしょうか。県政史上最大のプロジェクトと言われた静岡空港の建設事業が動き出しました。空港という目に見える、地図に残る仕事は事務職の私にとって魅力もあり出身の焼津にもほど近いということで現場に突入しました。
 現場は入ってみると空港反対一色でした。500人を超える地権者のほとんどが地域の住民ですけれど、先祖代々受け継がれてきた茶畑、みかん畑、里山を奪われてしまうということで怒り、不安、不信みたいなものが充満していました。
 地権者のお宅に伺っても話もできません。話をしてくれると思ったら、玄関のドア越しに空港は要らないということを1時間以上も叱られることもたびたびありました。
 そういう中で地権者の皆さんも事務所の職員を不憫に思ったのか、少しずつ話を聞いてくれるようになりました。半年以上たったころでしょうか、空港の設置許可申請に必要な地権者の同意書があるんですけれど、それの作業に入っていいよということで地権者側に了解を得ましてようやく空港事業がスタートしたという状況でした。
 地権者の方々と話をするということで実際には親切、丁寧、誠実、誠意、そういった対応が求められました。いわゆるお役所言葉みたいな、よく我々が基本的にはとか、原則としてとか防御性の高い言葉を使いますけれど、そういう言葉を使った途端にもう地権者から叱られます。要するにやるのかやらないのかどっちだと。そんな言葉も幾度かいただきまして、行政の基本となる県民目線を頭ではなく体で覚えたといいますか実感したときでもありました。
 平身低頭という言葉がありますが、環境アセスメントを空港でもやっていたんですけれど、吉田町の会場などでは空港反対という大合唱の中を当時の空港局長以下職員全員が会場の体育館の床に正座して頭を下げてお願いする場面もたびたびありました。
 一方で、開拓精神といいますか創意工夫にもあふれていました。500ヘクタールを超える東京ドーム100個分くらいの規模の土地を500人を超える地権者から土地をいただくということで、通常の用地買収の方法では全く動かないことがいっぱいありました。土地の価格設定、補償物件の調査、契約方法、税金対策に至るまで新しい手法を次々と編み出して難局を打開していきました。
 一例として、例えば茶農家が多かったものですから代替地の確保については通常代替地の確保は、地権者と代替地を提供してくださる方と県との三者契約で結びます。しかし同じ地域に代替地の対象があって多くの地権者が代替地を求めますので、代替地の取り合いになってしまいます。
 そこで、県が代替地を一定量取得しまして、それをプールして希望する地権者に抽せんで決定する方法をとりました。代替地を抽せんで決定するとは何事かと怒られるかと思いましたけれど、ビンゴゲーム形式の抽せんの魅力に地権者も大いに盛り上がりほっとしたこともあります。
 空港の話を申し上げましたけれど、今でも空港に行くと当時のことを思い出します。
 38年間に県庁のほとんどの部局の業務にかかわることができました。県庁に入るときに県の仕事は多くの分野にかかわり、社会生活に広くかかわることができるのが就職動機の1つでもありましたので、そういう意味では所期の目的は達成できたのかなと思っています。
 この1年間は職員の人事管理や健康管理に直接かかわり、健康上の理由で思うように仕事ができない職員が思いのほか多いことにも気付かされました。
 現在、コロナウイルス危機にも直面しておりますので、まさに健康の重要性を再認識した次第です。元気が一番、元気があれば何でもできる、いち・にん・さん・だーと言うアントニオ猪木の言葉がありますけれども、まさにそのとおりだと思います。私のこれからの人生訓にもしたいなと考えております。
 結びに当たりまして、県の職員はもとより、議員の皆様におかれましても健康には十分に留意され、ますます御活躍されますよう祈念いたしまして、私の定年退職に当たっての言葉といたします。ありがとうございました。(拍手)

○鈴木くらし・環境部長
 2番委員に身に余るお言葉をいただきましてどうもありがとうございました。
 先ほど2番委員から御紹介いただきましたとおり、私は住宅企画課に新採で入りましてこの最後の年に建築住宅局を持つこのくらし・環境部で終わるというのも何かの縁かなと思っております。
 何かの縁と申しますと、私はいろんな仕事をさせていただきましたけれども大変きつかったなと思っている仕事に、あした3月11日ですけれど東日本大震災の廃棄物の受け入れという仕事をしたのがございます。
 そのときの委員長と副委員長が今この委員会にいらっしゃいます。それも何かの縁かなと思っています。
 そのときの経験で言いますと、今と同じように現場にいて説明をするんですけれど、受け入れ反対の人って言うと全員が手を挙げたのがとてもつらくて、そこからスタートして何とかそれもなし遂げられ今ではよかったかなと思っています。
 その後危機管理部に行きまして、危機管理部では南海トラフの対応ということでいろいろ難しい問題がございました。なかなか委員会においてもうまく答弁できなくて、声が小さくなってだんだん困ってくるとそのときの委員長が元気出してやろうよって言ってくれたんですね。そのときの委員長もこの中にいらっしゃるんですよ。
 そのときに空港の西側用地を大規模な広域防災拠点に何とかしたいという知事の要望がありまして大臣にお願いに行くんだと。そのときに当時の自民党の政調会長と幹事長が一緒に行ってくれまして、大臣にお会いさせていただきました。知事と大臣が会ったんですが、そういうセッティングにしてくださいまして、そのときの息子さんもこの委員会の中にいらっしゃる。
 そういうことで、本当に先生方にも恵まれながら仕事をさせていただいたなと思っております。先生方初め皆さんに感謝しております。
 私がやってきて思うことは、月並みではありますけれどもよき先輩、よき同僚、よき後輩に恵まれたなということでございます。自分一人で、もちろん担当はおまえしかいないんだからおまえがわからなきゃ誰がわかるっていう言い方を入ったときに言われて、自分でやらなきゃいけないんだと徹底してやってきましたが、自分でやりきれない部分はあるし、自分が考えてこれでいいと思って上に上げたものもいろんな角度からそうじゃないとか、もっと別の方法があるだろうという言われ方をされました。
 今思うことは、自分で考えて案をつくってそれをみんなにたたいていただくことが、公務員として本当に重要なことじゃないかなとやってきた思いでございます。
 ですので今後、後輩の皆さんには自分でしっかり案をつくってそれを上に上げていくと。自分でつくった案が一番いいと思いがちですけれども、別の視点がある中でよりよいものになっていくとしっかり御理解いただいて、今後やっていただければ大変うれしいなと思っております。
 最後でございますけれども、本日委員会でいろんな審議いただきました。各分野にわたって本当にたくさんの激励や御要望いただきました。私は来年この事業を執行することできませんが、しっかりと引き継いで来年成果ができるように何とか準備していきたいと思います。どうもありがとうございました。(拍手)

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